石見銀山 たんけん隊 <20時間目>

 明治時代に入り、石見(いわみ)銀山は銅山(どうざん)に生まれ変わるんだ。民間の会社が大規模(だいきぼ)に開発し、採掘(さいくつ)や製錬(せいれん)も近代化が進んでいくよ。

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民間が銅山(どうざん)に大規模(だいきぼ)開発

 先生 1886(明治19)年、大阪(おおさか)の藤田(ふじた)組(現在(げんざい)のDOWA(ドウワ)ホールディングス)が、石見銀山を「大森鉱山(おおもりこうざん)」という銅山として再(さい)出発させるんだ。

 しおり 銅山?

 先生 実は江戸(えど)時代後半、すでに銀山では銀より銅が多く採(と)られていて、海外にも輸出(ゆしゅつ)していたんだ。

 しおり 藤田組はどんな会社なの?

 先生 全国で土木建設(けんせつ)や電力、新聞などの事業を手掛(てが)けた大きな会社で、鉱山経営(けいえい)も行っていたよ。

 さとる 間歩(まぶ)の掘(ほ)り方も変わってくるの?

 先生 そう。間歩を水平に掘るだけではなく、垂直(すいちょく)に掘り進め、これまで手が付けられなかった空間をくまなく大規模に採掘したよ。

 しおり 手作業では無理ね。機械が必要になるわ。

 先生 藤田組は採掘はもちろん、排水(はいすい)ポンプや鉱石の運搬(うんぱん)などを機械化し、機械を動かす電力を作る発電所も建てたんだ。

 さとる 鉱石を砕(くだ)いたり製錬したりするのも機械で行われたの?

明治28、29年ごろ
 先生 もちろん。なかでも唯一遺跡(ゆいいついせき)が残る清水谷(しみずだに)製錬所=写真=は20万円、現在の価値(かち)で数億円もの大金をかけて建てられたよ。

 しおり 作業の効率化(こうりつか)を図(はか)るため積極的(せっきょくてき)に設備(せつび)の近代化を進めたのね。

 先生 そのかいもあって、1917(大正(たいしょう)6)年には、金130.8キロ、銅478トン、銀4.6トンの生産量を誇(ほこ)り、中堅(ちゅうけん)クラスの鉱山にまで回復(かいふく)したよ。

 しおり 技術(ぎじゅつ)の進歩で金も取り出せるようになったのね。

 先生 でも地下300メートルくらいまで採掘が進むと、40~50℃の地下水が大量に湧(わ)き出すようになってね。熱いうえに、次第(しだい)に排水が追いつかなくなるんだ。

 さとる 長時間、温泉(おんせん)の中で作業をするような感覚だね。のぼせちゃうよ。

 先生 排水に資金(しきん)がかさみ、銅の値段(ねだん)が下落したことも重なって、1923(大正12)年、藤田組は大森鉱山の採掘を断念(だんねん)するよ。

 しおり 約400年にもおよぶ石見銀山採掘の幕(まく)が閉(と)じられるのね。

=もっと知りたい= 清水谷製錬所(しみずだにせいれんじょ)って?

 1895(明治28)年に山裾(やますそ)の傾斜(けいしゃ)を利用して建設(けんせつ)されたよ。でも、設計上の問題や鉱石(こうせき)の品質(ひんしつ)が予想以上に悪かったため、開始から1年程度(ていど)で停止(ていし)されるんだ。現在(げんざい)、施設跡(しせつあと)地を見ることができるよ。

・石見銀山資料館(しりょうかん)学芸員・藤原雄高(ふじはらゆたか)

2017年12月27日 無断転載禁止

こども新聞