法哲学研究の文化功労者 恒藤 恭(松江市出身)

大阪市立大学学長時代の恒藤恭。1956年卒業アルバムから=同大学大学史資料室提供
平和憲法(けんぽう)の定着に努力

 戦前の日本を代表する法哲学者(ほうてつがくしゃ)で文化功労者の恒藤恭(つねとうきょう)(1888~1967年)は、松江(まつえ)市内中原(うちなかばら)町に生まれました。京都大学教授(きょうじゅ)、大阪(おおさか)市立大学初代学長や日本法哲学学会理事長などを務(つと)め、戦後日本の平和憲法(けんぽう)と民主主義(しゅぎ)の定着に努力しました。

 恭は、父が漢詩を好んだ井川(いがわ)家に生まれました。幼少(ようしょう)のころから、漢文など書物が身近にある環境(かんきょう)の中で文学青年として育ちます。島根県立第一中学校(現在(げんざい)の松江北高)時代には、雑誌(ざっし)に随筆(ずいひつ)や短歌、俳句(はいく)などを投稿(とうこう)するほどでした。体調を壊(こわ)して、卒業した後に療養(りょうよう)中、都(みやこ)新聞(東京新聞の前身の一つ)懸賞(けんしょう)小説で1等になります。

芥川龍之介の俳句短冊(はいくたんざく)(右)と恒藤恭の俳句短冊
 健康を回復(かいふく)して第一高等学校(戦後、東京大学教養学部となる)に入学。英文科の同期に、4歳(さい)年下で親友となる芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や、同年齢(ねんれい)の菊池寛(きくちかん)、1歳年上の山本有三(やまもとゆうぞう)ら、後に小説家として活躍(かつやく)する人たちがいました。

 1913(大正2)年、英文科を1番で卒業(2番は芥川)し、京都大学法学部政治(せいじ)学科に入学します。文学系(けい)から法学系に進路を変更(へんこう)したのは、芥川との交流によって自分自身の文学的才能(さいのう)の限界(げんかい)を知ったからだと述(の)べています。

 東京大学英文科に進んだ芥川とは文通で交流し15(同4)年、恋(こい)が実らず失意の芥川を松江に招(まね)き約2週間、一緒(いっしょ)に過(す)ごしました。来松(らいしょう)を記念し、松陽新報(しょうようしんぽう)(山陰(さんいん)中央新報の前身の一つ)に26回(芥川の松江印象記を含(ふく)む)にわたって「翡翠記(ひすいき)」と題する随筆を連載(れんさい)しています。

 結婚(けっこん)して恒藤家の婿養子(むこようし)になった16(同5)年ごろから、ドイツの理想主義哲学・新カント派(は)の影響(えいきょう)を受けて法哲学に関心を持つようになりました。しかし、30年代にはその立場を離(はな)れ、「恒藤法哲学」ともいわれる独自(どくじ)の法哲学を築(きず)きます。

 同志社(どうししゃ)、京都両大学教授などを経(へ)て49(昭和24)年には大阪市立大学の初代学長に就任(しゅうにん)します。8年間の学長の間に総合(そうごう)大学としての基盤(きばん)固めに努力し、学外では平和問題懇話会(こんわかい)の関西(かんさい)有力メンバーの一人として活躍。66(同41)年、島根県では数少ない文化功労者に選ばれましたが翌年(よくねん)、死去しました。

 大阪市立大学は、学術情報(がくじゅつじょうほう)総合センター内に大学史資料(しりょう)室・恒藤記念室を設置(せっち)。恭が遺(のこ)した数多くの資料を整理保存(ほぞん)するとともに、功績(こうせき)を顕彰(けんしょう)しています。

2017年12月27日 無断転載禁止

こども新聞