日本商工会議所会頭を務めた 足立 正(境港市出身)

日本を代表する財界人として活躍した足立正=東京・紙の博物館所蔵
日本の経済(けいざい)発展(はってん)に尽(つ)くす

 日本商工会議所会頭や王子製紙(おうじせいし)社長などを務(つと)め、日本を代表する財界人(ざいかいじん)として活躍(かつやく)した足立正(あだちただし)(1883~1973年)は、父親が郵便(ゆうびん)局長をしていた現在(げんざい)の境港(さかいみなと)市朝日(あさひ)町で生まれました。家業は酒造(づく)りで、江戸(えど)時代は大庄屋(おおじょうや)を務めた家柄(いえがら)でした。

 小学校を卒業後、現在の松江(まつえ)北高を経(へ)て一橋(ひとつばし)大学に入学。在学(ざいがく)中、外交官を志(こころざ)していましたが、仕事柄(しごとがら)いつ会えるか分からなくなる父がさびしそうに見えて断念(だんねん)し、卒業した1905(明治38)年、三井物産(みついぶっさん)に入社しました。

 この会社には、大資本(しほん)家の三井財閥(ざいばつ)の中心人物の一人で後に貴族院(きぞくいん)議員などを務め、当時は台北(タイペイ)(日本領(りょう)だった台湾(たいわん)の中心都市)支店長(してんちょう)だった藤原銀次郎(ふじわらぎんじろう)がいました。

 銀次郎は大学卒業後、1890(同23)年に創刊(そうかん)(1904年廃刊(はいかん))された松江日報(にっぽう)で社主や、社説、論説(ろんせつ)など執筆する主筆(しゅひつ)を務めた経験(けいけん)があり、妻(つま)の実家と正の生家(せいか)が隣(となり)同士で親しく付き合っていた縁(えん)から、正は入社早々、台北に赴任(ふにん)します。

第1回鳥取県政顧問会議で話し合う顧問。向こう側左から3人目が足立正=1965年6月17日、東京の帝国ホテル。鳥取県立公文書館提供
 その後、銀次郎が王子製紙に会社を変わると、正も後を追って王子製紙に移(うつ)りました。銀次郎が商工大臣就任(しゅうにん)に伴(ともな)って初代社長を辞任(じにん)すると1942(昭和17)年、正が社長になり、戦時下で会社経営(けいえい)に努めました。

 正は51(同26)年、現在の東京放送(TBS)HD社長に迎(むか)えられ、日本民間放送連盟(れんめい)初代会長、57(同32)年には第12代日本商工会議所会頭に就任。在任期間は12年の長きにわたり、日本の経済発展(けいざいはってん)に尽(つ)くしました。

 腕白(わんぱく)だった境小学校時代の思い出として「授業(じゅぎょう)の前に学校から浜(はま)まで何往復(なんおうふく)も走らされた。寒風吹(かんぷうふ)きつける冬の最中(さいちゅう)に。生徒も我慢(がまん)強かった」(市報(しほう)さかいみなと平成28年6月号から)と紹介(しょうかい)されています。境小には36(同11)年、県内で初めてという図書館を寄贈(きぞう)しました。

 また『私の履歴書(りれきしょ)』(日本経済新聞社刊(かん))の中で「松江から東京高商(現一橋大学)を志望(しぼう)したものの中では私がトップだったので無試験入学となった」と書いており、今の受験競争とは異なった時代であったことをうかがわせます。

 65(同40)年には鳥取県の県政顧問(けんせいこもん)(5人)に委嘱(いしょく)され、73(同48)年まで全国的な視野(しや)から郷土(きょうど)の発展について建設(けんせつ)的な提言(ていげん)をしました。

2018年1月24日 無断転載禁止

こども新聞