平左衛門の夢の釣り小屋

 古今東西、釣りにまつわる格言の類いは多い。「一生幸せでいたかったら釣りを覚えなさい」。中国の古いことわざ。釣りは生涯飽きない奥深い趣味ということか。ことわざには続きがあって、釣りに比べて家の新築は1年、結婚に至っては3日間の幸せとあるから、うなるしかない▼世界的ベストセラー「老人と海」を著したヘミングウェーは「釣れない時は魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい」との言葉を残した。小説の老漁師は数カ月に及ぶ不漁を経てカジキを仕留めた▼この人は老後に釣三昧の日々を描いていたようだ。石見銀山で大森代官を務めた「芋代官」こと井戸平左衛門。江戸幕府の勘定役を60歳まで勤めると、勘定奉行にこれからは釣りを楽しむと伝えた。高齢者雇用誌の連載で歴史作家の童門冬二さんが取り上げている▼退官時には、江戸からはるか遠い石見の地での任を告げられることをつゆ知らず。江戸・向島に釣り小屋を建てる計画で、大工に話を持ちかけていた。家族にも「わがままを許してほしい」と申し出た▼江戸時代の平均寿命は35歳とも45歳ともいわれる。そんな中で現代社会と同じ60歳まで、苦労が絶えない幕府財政を預かる仕事に精励した。解放され、対極の趣味の世界に没頭したいとの平左衛門の理想の計画は理解できる▼直後に大岡越前守の説得を受け入れ大森に向かう。実直さで慕われた平左衛門は飢饉(ききん)に苦しむ領民の姿を目の当たりにして、釣り小屋の夢はきっぱりしまい込んだに違いない。(泰)

2018年2月14日 無断転載禁止