出雲大社教の基礎を築いた 千家尊福(出雲市出身)

初代管長として全国へ布教

出雲大社教の基礎を作った千家尊福(千家家提供)
 出雲大社(いずもたいしゃ)(出雲市大社町)の宮司(ぐうじ)を務(つと)める出雲国造家(こくそうけ)に生まれた千家尊福(せんげたかとみ)(1845~1918年)は、出雲大社教(おおやしろきょう)の基礎(きそ)を築(きず)き、現在(げんざい)の法務(ほうむ)大臣や東京都知事を歴任(れきにん)するなど、宗教(しゅうきょう)と政治(せいじ)の両面で大きな功績(こうせき)をあげました。

 1872(明治(めいじ)5)年から10年間、第80代出雲大社の宮司を務めた尊福が代表する出雲派(は)は、明治神道界中心・伊勢(いせ)神宮(三重(みえ)県伊勢市)の伊勢派と祭神論争(さいじんろんそう)をします。

 出雲派は、神道事務局(じむきょく)が神殿(しんでん)に祭っている4神の祭神に、出雲大社の祭神である大國主神(おおくにぬしのかみ)を加えるべきと主張(しゅちょう)しました。多くの支持(しじ)があり形勢(けいせい)は出雲派に傾(かたむ)きかけていましたが、最終的には国を巻(ま)き込(こ)んだ伊勢派が勝利します。

千家尊福の銅像=出雲市大社町杵築東、出雲大社境内
 国家神道と見解(けんかい)の相違(そうい)があることを知った尊福は、神道事務局から独立(どくりつ)した形で出雲大社の教化活動を進めなければならないと考え、出雲大社教を創始(そうし)しました。

 82(同15)年、宮司職(しょく)を弟に譲(ゆず)って以降(いこう)、自ら出雲大社教の初代管長として全国各地に出向いて精力(せいりょく)的に布教(ふきょう)します。

 また、出雲大社内に書籍縦覧(しょせきじゅうらん)所を設(もう)け、市民らの教育と文化の向上に役立てました。

 90(同23)年、第1回貴族(きぞく)院男爵(だんしゃく)議員選挙で貴族院議員に選ばれ、以後連続4期、務めます。94(同27)年からは地方自治にかかわり、埼玉(さいたま)、静岡(しずおか)、東京の知事に相次いで就任(しゅうにん)。

 さらに、1908(同41)年には西園寺公望内閣(さいおんじきんもちないかく)の司法大臣(現法務大臣)に任ぜられます。勲(くん)一等旭日大綬章(きょくじつだいじゅしょう)を受章、韓国(かんこく)や英国からも勲章を受け、功績が国の内外で認(みと)められました。

千家尊福が作詞した文部省唱歌「一月一日」の歌碑=出雲市大社町杵築東、出雲大社境内
 詩人や歌人としても知られ、1893(同26)年には文部省唱歌の「一月一日(いちがついちじつ)」を作詞(さくし)。「年のはじめの ためしとて おわりなき世の めでたさを…」の詞は、だれもが口ずさんだことのある曲です。

 出雲大社の境内(けいだい)には、尊福の銅像(どうぞう)と「一月一日」の歌碑(かひ)が建っています。

 1918(大正(たいしょう)7)年、72歳(さい)で亡(な)くなりました。

2018年3月21日 無断転載禁止

こども新聞