商都米子の基礎を築く 初代・坂口 平兵衞(米子市出身)

初代坂口平兵衞(坂口家所蔵)
経済や教育、福祉に尽力

 初代坂口(さかぐち)平(へい)兵(べ)衞(え)(1854~1933年)は代々、綿(わた)の仲買(なかがい)としょうゆ醸造(じょうぞう)を家業(かぎょう)とする米(よな)子(ご)市尾(お)高(だか)町の資(し)産(さん)家(か)・坂口家に生まれました。明治時代に入ってから、蚕(かいこ)を飼(か)い育てその繭(まゆ)から生(き)糸(いと)(絹(きぬ))を作る養蚕(ようさん)や製糸業(せいしぎょう)に力を入れて商都(しょうと)米子の基(き)礎(そ)を築(きず)き、米子商工会(現在(げんざい)の米子商工会議所)の初代会頭を務(つと)めました。

1881(明治14)年、父親が亡(な)くなったため27歳(さい)で財(ざい)産(さん)や事業を相続(そうぞく)し、91(同24)年には県内第一の多(た)額(がく)納税(のうぜい)者(しゃ)となります。同年、米子製糸合名(ごうめい)会社を設立(せつりつ)(その後、米子製糸株式会社、日本製糸株式会社などと社名変更)し、近代的工場で製糸業を始めます。この会社を全国有数の製糸会社に規(き)模(ぼ)拡大(かくだい)させ、養蚕と製糸業は昭和時代の初めまで山陰(さんいん)の重要産業となりました。

 このほか、同年に米子汽船合(ごう)資(し)会社を設立。米子-松(まつ)江(え)間や宍(しん)道(じ)湖(こ)に就航(しゅうこう)させました。94(同27)年には企業(きぎょう)を立ち上げるには資金が必要と米子銀行を興(おこ)し、頭取(とうどり)に就(しゅう)任(にん)。米子の経済(けいざい)発(はっ)展(てん)に大きく貢献(こうけん)しました。米子銀行はその後、松江銀行と合併(がっぺい)して誕(たん)生(じょう)した山陰合同銀行の前身となります。

 この年、合名会社坂口商店(現坂口合名会社)を設立し、しょうゆ醸造販売(はんばい)、砂(さ)糖(とう)、紡績(ぼうせき)糸(いと)、石油販売に加え、酒造業(しゅぞうぎょう)を営(いとな)みました。総合的(そうごうてき)商店で、特にしょうゆ販売は北海道から沖縄(おきなわ)まで広(こう)範(はん)囲(い)に及(およ)びました。

日本製糸株式会社の新築落成を伝える写真=1920年、米子市内、坂口合名会社所蔵
 1907(同40)年には山陰電気株(かぶ)式(しき)会社を創立(そうりつ)。250キロワットの発電所を建設し、米子の街(まち)に電気を供給(きょうきゅう)しました。商才(しょうさい)は非(ひ)凡(ぼん)で、米子から境港(さかいみなと)まで他人の土地を踏(ふ)まずに行けるといわれるほどでした。

 09(同42)年には、東京証券(しょうけん)取引所など設立にかかわり「日本資(し)本(ほん)主(しゅ)義(ぎ)の父」とも呼(よ)ばれた渋沢栄一(しぶさわえいいち)を団長(だんちょう)とする渡(と)米(べい)視(し)察(さつ)団(だん)に製糸業界を代表して参加しています。

 経済活動だけでなく社会事業にも力を入れました。06(同39)年、寄(き)付(ふ)をした土地に私(し)立(りつ)米子女学校(じょがっこう)(現在の鳥取県立米子西高等学校)が開校され、27(昭和2)年に商都米子の商業教育機関として設立された県立蚕業(さんぎょう)学校(翌年(よくねん)県立米子商蚕(しょうさん)学校に改称(かいしょう)、現県立米子南高等学校)に巨(きょ)費(ひ)を寄付しています。

 また14(大正3)年、還暦(かんれき)記念事業として人材育成を目的とした財団法人坂口奨学館(しょうがくかん)を設立。自ら館長として、多くの人材を世に送りました。

 さらに21(同10)年には博愛(はくあい)病院(米子市両三柳(りょうみつやなぎ))を設立。福(ふく)祉(し)にも並々(なみなみ)ならぬ情熱(じょうねつ)を燃(も)やしました。

 33(昭和8)年、78歳で亡くなります。

 米子市は初代平兵衞の偉業(いぎょう)をたたえ、名(めい)誉(よ)市民の称号(しょうごう)を贈(おく)りました。 (重(しげ)原(はら)伸一(しんいち))

2018年7月25日 無断転載禁止

こども新聞