イチゴ品種改良に成功 福羽 逸人(津和野町出身)

園芸や各地の造園で業績

日本で初めてイチゴを作った福羽逸人=新宿御苑管理事務所提供
 石(いわ)見(みの)国(くに)津(つ)和(わ)野(の)藩(はん)(現(げん)在(ざい)の島根県津和野町)出身の福(ふく)羽(ば)逸(はや)人(と)(1856~1921年)は、皆(みな)さんが普(ふ)段(だん)食べているイチゴの品種改良に日本で初めて成功しました。海外で園芸についての勉強を重ねて宮(く)内省(ないしょう)に入り、同省管(かん)轄(かつ)の新宿(しんじゅく)御(ぎょ)苑(えん)をはじめ全国各地の造(ぞう)園(えん)に携(たずさ)わった、日本の園芸界の第一人者です。

 福羽は、1856年11月16日に津和野藩(はん)士(し)・佐々布(さそう)利(とし)厚(あつ)の三男として生まれました。後に栄(えい)誉(よ)ある宮内省に入る福羽ですが、子どもの頃(ころ)は大の勉強嫌(ぎら)いだったそうです。著(ちょ)書(しょ)の中で、「幼(よう)少期(しょうき)は物(もの)覚(おぼ)えが悪く読書が嫌いで、遊んだりけんかしたりばかりのがき大将(だいしょう)だった」と本人が記しています。

 16歳(さい)の時に、藩主の右(みぎ)腕(うで)として活(かつ)躍(やく)した国学者・福羽美(よし)静(しず)(1831~1907年)の養(よう)子(し)となり、上京しました。環境(かんきょう)が変わったからか、東京大学工学部の前身の工学省工学寮(りょう)や、日本最初の私(し)立(りつ)農学校の学農社農学校に通い、農学や栽(さい)培(ばい)技術(ぎじゅつ)などを熱心に学びました。

 1877年には、明治政(せい)府(ふ)の勧(かん)農局(のうきょく)農業試験場の農業生となり、園芸の研究のために欧(おう)米(べい)にも渡(わた)りました。その豊(ほう)富(ふ)な知(ち)識(しき)から、農(のう)商務省(しょうむしょう)技(ぎ)官(かん)や宮内省式(しき)部(ぶ)官(かん)を務(つと)めています。試験場は、79年に一部が宮内省に移(うつ)され「新宿植物御苑」となり、福羽は98年に責(せき)任(にん)者(しゃ)に就任(しゅうにん)しました。

 そして、1902年から4年をかけ、和洋の様式が混(こん)在(ざい)する皇(こう)室(しつ)の庭園「新宿御苑」として改(かい)造(ぞう)しました。御苑は現在、国民公園として親しまれており、広さは東京ドーム約12個(こ)分(58・3ヘクタール)、樹(じゅ)木(もく)は約1万本という日本有数の庭園です。桜(さくら)だけでも約千本あり、毎年4月には内(ない)閣(かく)総(そう)理(り)大臣主(しゅ)催(さい)の「桜を見る会」が開かれています。

福羽逸人が開発した「福羽イチゴ」=新宿御苑管理事務所提供
 初めてイチゴの育成に成功したのもこの新宿御苑です。当時のイチゴは、アメリカなどからの輸入(ゆにゅう)が主でした。日本での栽培は、海外から輸入した苗(なえ)が輸送中に枯(か)れてしまうことが多く、うまく育たなかったのです。

 福羽は、フランスから取り寄(よ)せたイチゴの種子を新宿御苑で10年以上かけて研究し、1899年に新品種「福羽イチゴ」として発表しました。当初は、皇室に献上(けんじょう)するための貴重(きちょう)品(ひん)でしたが、1919年に一(いっ)般(ぱん)市場での栽培が許(きょ)可(か)されると日本中でたちまち人気となり、現在ある多くのイチゴ品種の基(き)礎(そ)となりました。

 その後も退職(たいしょく)まで宮内省に籍(せき)を置いて全国の公園などの造園に携わり、日本の農学、園芸に生涯(しょうがい)をささげました。福羽がいなければ、私たちも今ほど手軽にイチゴを食べられなかったかもしれませんね。

2018年8月22日 無断転載禁止

こども新聞