いつから「出雲」だったのか

 「出雲」はいつから「出雲」だったのか。日本でまだ文字らしい文字が浸透していない時代のことで、はっきりしたことは分からない▼荒神谷や加茂岩倉の両遺跡から出た大量の青銅器を目の当たりにすれば、弥生時代にかなりの力を持った勢力がいたことは、誰でも想像はつく。ただしそれを「出雲」と呼んでいいのかは、別の話だ▼その青銅器群が並ぶ出雲市の古代出雲歴史博物館で、面白い企画展が開催されている。「古墳は語る 古代出雲誕生」。島根県東部としての「出雲」の枠組みができる過程を、考古学の立場から丁寧に追う▼古墳時代後期の6世紀。巨大な前方後方墳をまつった現在の松江市周辺と、ヤマト伝来の前方後円墳を築いた出雲市周辺の二大勢力が、徐々に一つの「出雲」になっていく。会場ではその過程を遺物の特徴などからひもとく。宍道湖を挟んだ東西の地の競争が1500年前にも垣間見えるのは、非常に興味深い▼倉吉市で出土した出雲式の子持ち壷(つぼ)や、米子市淀江町で見つかった入れ墨のある武人のはにわなど、鳥取県の遺物も数多い。以前、鳥取県教育委員会の中原斉文化財課長から聞いた「古代出雲は、島根県東部に限られたブランドではない」との言葉が頭をよぎった▼ここで、もう一つの疑問がわく。古代に文化を共有していたはずの出雲と伯耆が、なぜ今の境界線で区切られたのか。私たちの経済活動はもちろん、原発問題においても横たわる「県境の壁」。その発祥について、いつか聞いてみたい。(示)

2018年9月5日 無断転載禁止