曖昧さの危険性/カタカナ言葉 吟味を

 京都大学公共政策大学院名誉フェロー 佐伯 英隆

 最近、特定の言論や行動を定義する言葉として、セクハラ、パワハラ、ヘイトスピーチ、ブラック(企業)といったカタカナ言葉が頻繁に用いられる。そのような言葉の流布によって、顕在化しなかった人権侵害の事例が明るみに出て、批判・是正・改善がなされる好事例も多いのだが、同時にこのようなカタカナのレッテル張りが多用されることによる副作用も出ているように思う。

 どのような状態であればセクハラやブラックなのか、あるいは批判とヘイトスピーチの相違、部下への叱責(しっせき)・指導とパワハラの境界線はどこにあるのかは、そもそもが極めて曖昧で、個別にかつ詳細に吟味されるべきだ。

 また、本来ある主張をする際には、主張をする側に挙証責任があるが、レッテル張りの手法を使えば、瞬時に挙証責任が転換されて、批判された側が「そうではないこと」を証明せねばならなくなる。ましてそれが外国語である時は、その曖昧さのゆえに「それはパワハラだ」「セクハラだ」と批判されると、パワハラ「ではない」、セクハラ「ではない」と反論するのが、指摘する側に比して、極めて困難だ。勢い「言ったもの勝ち」の結果になることが多い。

 以前もこのコラムで述べたが、新しい外国単語を翻訳することは、まずその言葉の持つ意味を究極まで探求し、いったん抽象化した上で、概念を最も適切に表現する和語を選択するか、創造するという一連の知的作業が必要だ。

 その過程の中で、単語の持つ意味の広がりと境界線が日本語として規定され、一定の時を経て万人が共通認識を持つ言葉として定着する。明治の先人たちは地道にこの作業に取り組んだが、近時は原語を生のままカタカナ書きにしてしまう方が、カッコ良いと見なされがちだ。ただ、この過程をすっ飛ばせば、その意味する所の曖昧さは最後まで残る。

 従って、外国単語をそのままカタカナ表記するのは、よほど慎重にすべきだが、われわれにはカタカナという便利な道具があるので、ややもすればこのような知的作業を省略したい誘惑が常に存在する。ただ、昨今のカタカナ・レッテル張りが流行する背景には、単に手間を惜しむという単純な理由ではなく、曖昧さを利用した極限までの拡大解釈を通じて世論を特定の方向に誘導したいという「運動家の想い」があるように感じる。

 特に注意しなければならないのは、ヘイトスピーチという言葉の使われ方だろう。思想・信条の自由は、必ずしも表現の自由を保障するものではない。自らの考えを言行で表現した場合、時として名誉棄損(きそん)や威力業務妨害などの違法行為となることはある。

 個人がどんな思想・信条を持とうが、そのこと自体は自由でなければならないし、同時にそれを批判することも自由である。しかし、気に入らない議論に「それはヘイトスピーチだ」とのレッテル張りをすれば、当該議論を瞬時に圧殺することも容易となる。

 加えてこの言葉が用いられる場合、単なる批判を超えて、相手側に「反省」や「謝罪」を要求するケースが多い。思想・信条そのものを「間違っている」として人民裁判的な大衆討議の圧力で謝罪させ、あるいは自己批判させる手法は、何やら文化大革命時の紅衛兵を想起させ誠に息苦しい。レッテル張りというのはそれほど危険な手法である。

 ネット社会が発達し、従来とは比較にならない数の人が「世論形成」に参加出来るようになった現在、このような手法は、内容や実情を吟味しない「決めつけ」を招きやすく、世論誘導には抜群の効果をもたらす。さらにこのレッテルが外国語を直接導入したカタカナ表記ゆえの曖昧さを内包し、拡大解釈が可能なら、いわゆる「運動家」にとってはこれほど便利な武器はない。

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 さえき・ひでたか 大阪府出身。東京大法学部卒、ハーバード大J・Fケネディ行政大学院修了。1974年、通産省(現経産省)に入省。在ジュネーブ日本政府代表部参事官、島根県警本部長、通商政策局審議官などを経て2004年に退官。15年3月まで京都大公共政策大学院特別教授。イリス経済研究所代表などを務める。

2019年2月10日 無断転載禁止