夢を追い 未踏の島に上陸 今津屋 八右衛門(浜田市生まれ)

浜田藩の財政 救おうと行動

日本海に向かって立つ八右衛門の頌徳碑=浜田市松原町
 今津屋(いまづや)八(はち)右衛(え)門(もん)(1798~1836年)は江戸(えど)時代、財政(ざいせい)が苦しかった浜田(はまだ)藩(はん)を救おうとしました。幕府(ばくふ)が海外との往来(おうらい)や貿易(ぼうえき)を制限(せいげん)していた中で、韓国(かんこく)の鬱陵島(うつりょうとう)に上陸し、産物を持ち帰って藩のために富をもたらそうとしました。その勇気と行動は、今も語り継(つ)がれています。

 八右衛門は、現在(げんざい)の浜田市松(まつ)原(ばら)町で代々廻(かい)船(せん)業者を営(いとな)む家に生まれました。

 浜田は外(と)ノ(の)浦(うら)、瀬(せ)戸(と)ヶ(が)島(しま)、長浜(ながはま)に北(きた)前(まえ)船(ぶね)が入り、北陸方面と瀬戸内方面を結ぶ「西廻(まわ)り航路」で、風を待つための中(ちゅう)継(けい)港として栄えました。

 八右衛門は、廻船の乗組員を経(けい)験(けん)した後、船を所有して年(ねん)貢(ぐ)米(まい)を運んだ記録があります。廻船とは、木造の船に荷物を載(の)せて港から港へ運んで商売をするものです。

 浜田から北海道に向かう航路の近くで鬱陵島を見かけ、人が住んでいない様子に注目しました。鬱陵島にある木や海産物を浜田に持ち帰って売れば、自分だけでなく浜田藩にも大きな利(り)益(えき)をもたらすと考えました。

 そこで1831(天保(てんぽう)2)年、江(え)戸(ど)(東京)にある浜田藩の屋(や)敷(しき)を訪(たず)ね、自分の考えを役人に伝えました。役人は、島が日本の領土かはっきりしないため、行かないようにと命じます。それでも八右衛門は浜田に戻(もど)り、国(くに)家(が)老(ろう)という藩の重役だった岡(おか)田(だ)頼(たの)母(も)に伝えるよう、家来の橋(はし)本(もと)三(さん)兵(べ)衛(え)に願い出ました。

 岡田は、鬱陵島が当時の朝鮮(ちょうせん)の領土だと対馬(つしま)藩(長(なが)崎(さき)県)の資料(しりょう)で知ります。そこで別の無人島に向かうと見せかけて、実(じっ)際(さい)には鬱陵島に渡(わた)るように指(し)示(じ)しました。密(みっ)航(こう)が見つかってしまった場合には、遭(そう)難(なん)して鬱陵島に漂着(ひょうちゃく)したことにするよう、八右衛門に伝えました。ここで言う無人島は、島根県の竹島(当時の名前は松島)を指していました。

 八右衛門は大(おお)阪(さか)などから資(し)金(きん)を集め、新しく船を造(つく)りました。1833(天保4)年、鬱陵島に向けて出港し、ニホンアシカを鉄(てっ)砲(ぽう)で撃(う)ち、朝鮮人(にん)参(じん)のような植物や木材を持ち出しました。途中(とちゅう)、海が荒(あ)れて積み荷の一部を捨(す)てましたが、何とか浜田に帰り着き、岡田のもとに積み荷を差し出しました。

 しかし、八右衛門の密航は幕府に伝わり、1836(天保7)年に八右衛門は捕(と)らわれて江戸で処(しょ)刑(けい)されました。浜田藩の橋本三兵衛も死(し)罪(ざい)、岡田頼母も切(せっ)腹(ぷく)する騒(そう)動(どう)となりました。

 幕府は以前から無(む)断(だん)で外国への渡(と)航(こう)や、交(こう)易(えき)することを禁(きん)じており、全国に鬱陵島へ行かないようにお触(ふ)れを出しました。

 八右衛門は罪(ざい)人(にん)として38歳(さい)で最(さい)期(ご)を迎(むか)えました。しかし、古里浜田には八右衛門をたたえる頌徳碑(しょうとくひ)が立っています。

2019年2月20日 無断転載禁止

こども新聞