江戸時代にオランダ語、英語教授 布野 雲平(出雲市生まれ)

西洋文化の紹介に尽力

卜部忠治さんが自費出版した「学習まんが 布野雲平(八雲井雲八)物語」
 布(ふ)野(の)雲(うん)平(ぺい)(1826~1903年)は、江(え)戸(ど)時代にオランダ語や英語を習(しゅう)得(とく)し、藩主(はんしゅ)松平家(まつだいらけ)の松(まつ)江(え)藩立洋学校(島根大学の前身)創(そう)立(りつ)に尽(じん)力(りょく)。教(きょう)授(じゅ)を務(つと)め、西洋文化を紹介(しょうかい)する功績(こうせき)をあげました。

 雲平は、出(いず)雲(も)市今市(いまいち)町で医(い)師(し)の家に生まれました。16歳(さい)の1842(天保(てんぽう)13)年、山口県萩(はぎ)市でオランダ語や西(せい)欧(おう)の学問を教える蘭学(らんがく)塾(じゅく)に入って学びます。

 成績(せいせき)が優(ゆう)秀(しゅう)だったため1851(嘉(か)永(えい)4)年、全国から福沢(ふくざわ)諭(ゆ)吉(きち)や大村(おおむら)益(ます)次(じ)郎(ろう)ら歴(れき)史(し)に名前を残した人たちが前後して学んだ大(おお)阪(さか)の適(てき)塾(じゅく)に入門し、蘭学と医学を勉強しました。

 1854(安政(あんせい)元)年、幕(ばく)府(ふ)との通商を求めてロシアの海軍軍人プチャーチン率(ひき)いる使(し)節(せつ)団(だん)が大阪沖(おき)に来た際(さい)、得意のオランダ語で交(こう)渉(しょう)の通訳(つうやく)を務めます。しかし、この時、世界で通用する言語は英語と知らされ、日本の役に立ちたいとの思いから翌(よく)年、江戸に行って英語塾に入りました。

 塾を卒業後、1858(安政5)年には大(おお)分(いた)県の中(なか)津(つ)藩が洋学教育のため江戸で開いた蘭学舎(らんがくしゃ)(慶(けい)応(おう)大学の前身)の初代英語教授を委(い)嘱(しょく)されました。2年後には、通訳や外国の文書の翻訳(ほんやく)をする幕(ばく)府(ふ)の蕃(ばん)書(しょ)調(しらべ)所(しょ)(後の洋書調所、東京大学の前身)で人材を養成する英語教授に任命(にんめい)されます。

 任命によって雲平の存(そん)在(ざい)を知った松江藩松平家9代藩主の松平斉(なり)貴(たけ)が1862(文(ぶん)久(きゅう)2)年、松江藩松平家江戸屋(や)敷(しき)に洋学校を創立し、雲平を教授に迎(むか)えました。雲平は蕃書調所教授を兼(けん)務(む)します。

 翌年、斉貴が死去すると、松江藩松平家10代藩主松平定(さだ)安(やす)の命によって松江に藩立洋学校を創立。雲平は教授を務め、藩(はん)士(し)の子(し)弟(てい)らに英語や英学を教えました。その後、江戸に戻(もど)り、外国奉(ぶ)行(ぎょう)所(しょ)で翻訳や通訳の役(やく)職(しょく)につきました。

 時代が明治になった1868年、出雲にちなんで八(や)雲(くも)井(い)雲八(うんぱち)と改(かい)名(めい)。上から読んでも下から読んでも同じユーモラスな名前でした。輸(ゆ)入(にゅう)品の商売や横(よこ)浜(はま)で時計店、東京で英語塾を開くなど西洋文化を紹介するという信(しん)念(ねん)を貫(つらぬ)きました。1903(明治36)年、肺(はい)炎(えん)を患(わずら)い、76歳で亡(な)くなります。

 雲平の生(しょう)涯(がい)はよく分かっていませんでした。しかし、出雲市今市町の郷(きょう)土(ど)史(し)家(か)、卜(うら)部(べ)忠(ちゅう)治(じ)さん(96)が約30年かけて独(どく)学(がく)で調べたり、雲平のひ孫(まご)の神(か)奈(な)川(がわ)県川(かわ)崎(さき)市在住(ざいじゅう)、八雲井隆(たか)義(よし)さん(56)が所(しょ)蔵(ぞう)する資(し)料(りょう)などを基(もと)に、伝記やまんがを出版(しゅっぱん)して業績(ぎょうせき)や人となりを紹介しました。


2019年6月19日 無断転載禁止

こども新聞