奇怪な対馬韓国領説/最初は韓国人も相手せず

日本安全保障戦略研究所研究員 藤井 賢二

 対馬は韓国領と主張する奇怪な運動がある。今年6月19日に韓国慶尚南道の昌原(チャンウォン)市で開催された第15回「対馬の日」記念式で主催者は、「対馬は数多くの歴史資料で朝鮮の領土と記録されている地」であり、「今後も対島が我が地であることを確認する多くの記念事業を推進して市民の歴史意識鼓吹(こすい)に最善を尽くす」と述べた(6月20日付「ニュース慶南」電子版)。

 1948年8月に韓国政府が成立した時、李(イ)承晩(スンマン)大統領は声明で対馬「返還」を求めた。日本人の衝撃は大きく、「同島の住民が動揺し、荷物をまとめて逃げ帰る傾向が顕著であった」という(同年10月22日付「連絡調整中央委員会第35回幹事会議事趣旨」)。この動きに対応して米国は50年3月に報告書「韓国の最近の対馬要求」を作成した。報告書には、朝鮮が対馬を管理してきた事実はなく、一方、「日本が少なくとも350年間完全で有効な管理を対馬で行ってきたことは疑いの余地はない」と記されていた。

 51年7月9日、韓国は対馬を自国領とすることを講和条約に記すよう米国に要求したが拒絶され、同月19日に撤回した。同年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約では、日本が放棄する朝鮮に属する島に対馬は入らず、対馬は日本領に残された。対馬は韓国領という主張に根拠はない。なお、韓国は対馬への要求を撤回すると同時に、今度は竹島が朝鮮領であることを講和条約に記すことを米国に要求した。米国がこの要求を「ラスク書簡」で拒否したことはよく知られている。

 李承晩よりも前に対馬を要求したのが、日本の朝鮮統治終了2カ月後の45年10月15日付の鄭(チョン)文基(ムンギ)による「対馬島(テマド)の朝鮮所属と東洋平和の永続性」である。そこでは、倭寇(わこう)掃討を目的とした1419年の李氏朝鮮の対馬攻撃など「根拠」が述べられ、朝鮮沿岸の漁業資源を枯渇させる日本人漁業者の根拠地であって、日本の朝鮮に対する「陰謀策動」の基地である対馬の「奪還」が主張された。

 鄭文基は1898年に全羅南道順天に生まれ、旧制松山高校を経て東京帝国大学農学部水産学科で学び、卒業後は朝鮮総督府に入り水産試験場などで勤務した。植民地朝鮮のエリートであった。

 1977年12月10日付「韓国日報」掲載の回顧録によれば、45年9月発表の「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」を新聞で読んだ鄭文基は、日本の領土は北海道、本州、四国、九州に局限され、対馬はそこから抜け落ちると判断したという。しかし、対馬の帰属を決めたのはサンフランシスコ平和条約であり、彼の判断は誤りである。

 77年12月11、13日付『韓国日報』で鄭文基は、対馬「奪還」の訴えに当時の有力者たちはことごとく無関心だった、48年の李承晩大統領の声明もあまりに遅すぎたと不満を記した。一方で、「我々が対馬島の領有権を主張して日本が独島問題を提起することができないよう、最小限の牽制(けんせい)の口実となる」と、対馬返還要求を意義付けた。2005年の馬山(マサン)市(現在の昌原市)による「対馬の日」制定は、島根県の「竹島の日」条例制定に反発したものであった。日本の竹島問題提起への牽制策という鄭文基の意義付けは現在も生きている。

 鄭文基の対馬「奪還」要求については「いささか感情的とも思われるような対日強硬策」(竹国友康『ハモの旅、メンタイの夢―日韓さかな交流史-』)という評価があるが、私は彼なりの計算を感じる。そして、最初は李承晩でさえ「上の空」で「何の反応もなかった」と鄭文基が嘆いた荒唐無稽な対馬要求が、あたかも根拠があるかのように韓国人の間にいつの間にか定着することを、警戒する必要がある。

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 ふじい・けんじ 島根県吉賀町出身。同県竹島問題研究会研究委員。最近の論考に「対日講和条約と竹島」(『島嶼(とうしょ)研究ジャーナル』8巻2号)がある。

2019年9月22日 無断転載禁止