庶民教育の先覚者 内村 鱸香(松江市出身)

若槻(わかつき)礼次郎(れいじろう)、岸(きし)清一(せいいち)ら育てる

松江市役所前に立つ内村鱸香の顕彰碑=松江市末次町の末次公園
 松(まつ)江(え)市出身の内村(うちむら)鱸(ろ)香(こう)(1821~1901年)は、江戸から明治にかけての激動(げきどう)の時代に公教育と私(し)塾(じゅく)教育に熱心に取り組み、「庶民(しょみん)教育の先覚者」とたたえられた教育者です。

 私塾では、首相を2度務(つと)めた若槻(わかつき)礼(れい)次(じ)郎(ろう)や、国際(こくさい)オリンピック委員会(IOC)委員、日本体育協会会長などを務め、「近代スポーツの父」と呼(よ)ばれた岸(きし)清一(せいいち)らの松江市出身者をはじめ、日本を代表する多くの人材を育成しました。

 鱸香は松江市中原(なかばら)町の油(あぶら)屋(や)に生まれ、小さい時から油を売る仕事を手伝います。向学(こうがく)心(しん)が強く、時間を見つけては勉強しました。好きな読書は深夜にまで及(およ)び、親から「油代が無(む)駄(だ)だ」とたびたび叱(しか)られるほどでした。

 1851(嘉(か)永(えい)4)年、30歳(さい)の時に、江戸幕(ばく)府(ふ)が運(うん)営(えい)し当時の日本で最高の勉強ができる学校の昌(しょう)平(へい)坂(ざか)学問所に、町人の身分で初めて入学を許(ゆる)されます。

 鎖(さ)国(こく)時代の1853(嘉永6)年、アメリカの海軍軍人ペリーが黒船を率(ひき)いて浦(うら)賀(が)(神(か)奈(な)川(がわ)県横(よこ)須(す)賀(か)市)に来(らい)航(こう)し、幕府に開国を迫(せま)ったことに影(えい)響(きょう)を受けます。

 小学校が設(せっ)置(ち)される学制(がくせい)発(はっ)布(ぷ)より20年近く前、世界の動きを目の当たりにし「村の隅(すみ)々(ずみ)まで、しっかりした学(まなび)舎(や)を設(もう)けるべき」と庶民教育の必(ひつ)要(よう)性(せい)を提唱(ていしょう)しました。

 1864(元治(がんじ)元)年、松江藩(はん)の命によって帰郷(ききょう)。藩校で儒学(じゅがく)を教え、藩主父子の学問相談相手を任(まか)されました。

 1867(慶応(けいおう)3)年、政権(せいけん)を朝廷(ちょうてい)に返上する大政(たいせい)奉還(ほうかん)や、武家(ぶけ)政治から君主制(くんしゅせい)に戻(もど)る王政復古(おうせいふっこ)の大号令が発せられた後も、まだ松江藩は幕府(ばくふ)か新政府のいずれを選ぶか態(たい)度(ど)を決めかねていました。

 松江藩主が藩としての方針(ほうしん)を諮(はか)った際(さい)、幕府に近い親藩(しんぱん)という立場から新政府側に立つことに慎(しん)重(ちょう)な意見が多く出ました。しかし、鱸香は朝廷(ちょうてい)側を大切にすべきと発言。これによって、藩の方針は決定しました。

 1869(明治2)年には、藩が領地(りょうち)や領民(りょうみん)を朝廷に返す版籍奉還(はんせきほうかん)すべきと、全国の藩の中でいち早く進言します。

 1875(明治8)年、54歳の時に松江市西茶町(にしちゃまち)に私塾の相(そう)長(ちょう)舎(しゃ)を開設(かいせつ)。ほどなく、松江中学(現(げん)・松江北高)教(きょう)師(し)と白潟(しらかた)小学校(現・中央小)の初代校長を兼(けん)務(む)し、公教育と私塾教育を両立させます。相長舎の経営(けいえい)は亡(な)くなる80歳まで続け、3千人もの塾生を育てました。

 若槻や岸のほか、法(ほう)政(せい)大学初代総(そう)長(ちょう)を務め「民法の父」と呼ばれた梅(うめ)謙次郎(けんじろう)ら後に松江市名(めい)誉(よ)市民に選ばれた人たちや「浮(うき)雲(ぐも)」で知られる小説家の二(ふた)葉(ば)亭(てい)四(し)迷(めい)らが学びました。

 松江市役所前の末次(すえつぐ)公園に、鱸香の功績(こうせき)を顕(けん)彰(しょう)する石(せき)碑(ひ)が立っています。また、住民団(だん)体(たい)「城(じょう)西(さい)ふるさと楽会(がっかい)」などが紙(かみ)芝(しば)居(い)やDVDを制作(せいさく)して、子どもたちに地域(ちいき)の偉人(いじん)や遺産(いさん)を伝える活動を続けています。

2020年3月18日 無断転載禁止

こども新聞