松江誕生物語

  • 【二俣城跡】城郭の基本的な姿は今川氏や徳川氏によって形づくられたが、石垣や天守は堀尾宗光が兄の吉晴とともに大改修した。昨年の発掘調査では本丸中仕切り門の礎石と石垣の一部が確認された。中央後方は天守の下に築かれた石垣。写真は現地説明会の資料作りをする浜松市の職員=静岡県浜松市天竜区二俣町

    (50・最終回)堀尾吉晴・栄光の軌跡

     家康の城実は吉晴築く (2010/03/29) [全文]

  • 【刈り入れ時】羊蹄山のすそ野を開拓した鈴木農場でのトラクターによる収穫風景。大正年代に撮影=鈴木家所蔵、以下、同農場の写真はいずれも鈴木家所蔵

    (49)機械化農法と鈴木農場

     時代の先端駆け抜ける (2010/03/22) [全文]

  • 【大正初期の農場本部】大正初期の松平農場の農場本部全景(北海道開拓記念館・内田家資料)

    (48)松江藩ゆかりの松平農場

     北の大地に輝く足跡 (2010/03/15) [全文]

  • 【美保関の二千両箱】北前船が寄港した港町の繁栄を物語る二千両箱=松江市美保関町、美保関資料館

    (47)港町と遊女

    繁栄ぶり示す二千両箱 (2010/03/08) [全文]

  • 【出雲神社巡拝記】版木75枚の超大作。版木1枚の表裏両面に4ページ分。墨の代わりにカーボン用紙で刷ってみた=松江市の文化財収蔵庫

    (46)版木と出版事情

     1字ずつ活字を組む活版技術が輸入される幕末期まで、日本国内の印刷、出版は職人が彫る版木が頼りだった。もっとも版木は何度も再利用され、最後は薪になったりするため、後世に残ることは珍しいという。 (2010/03/01) [全文]

  • 【樋野コレクション】数十冊のアルバムにまとめられた絵はがきや写真、切手などを前に歴史談議が弾む樋野俊晴さん(右)と松江市史編さん委員乾隆明さん=松江市雑賀町、樋野家

    (45)民家に絵はがき800点

     明治~昭和の世相映す (2010/02/22) [全文]

  • 【千両箱】「弐拾壱番 金千両入」と書かれた千両箱(手前)。手にしている小判は享保小判で、箱の中に左から天保小判、万延小判(2枚)が並んでいる=松江市殿町、松江郷土館

    (44)朝鮮ニンジン

     栄光示す専用「千両箱」 (2010/02/15) [全文]

  • 【松江城の外堀】四十間堀(右)をはさんで左が内中原町、右が外中原町。現在の堀幅は約25メートル。京極時代までは約3倍の広さがあった=松江市黒田町の松江堀川ふれあい広場から撮影

    (43)本当に40間「四十間堀」

     絵図に記され延々1000メートル (2010/01/18) [全文]

  • 【40点の資料発見】松江市文化財課の沼本龍専門調査員から確認された見立番付の説明を受ける神田忠興さん(左)=出雲市下古志町、神田さん方

    (42)江戸時代の相撲見立番付

     時代を映すランク付け (2009/12/28) [全文]

  • 【料理人・安藤さんが解説】婚礼料理や食器について解説する安藤登さん(中央)と参加者ら。婚礼のお披露目は1番客、2番客と何日にもわたって続いたという。雌雄のクジャクや扇面などが描かれた硯蓋(2列目左から2、3点目)。中にはかまぼこ、シイタケ、山芋、マグロ、大広盆(右端手前の1、2点)にはあんかけ魚、絹ごし豆腐などが盛られた。中央の金属製の楕円(だえん)形の器は鯛麺を入れた長鍋で、木箱の中に鍋を入れる構造は現在の保温調理器と同じ=出雲市大社町、手銭記念館

    (41)江戸時代の婚礼料理再現

     詳細資料なく手探り状態 (2009/12/21) [全文]

  • 【神等去出神事】斎場の中に、「池」と呼ばれる小さなくぼみがあり、海につながっているとされる。そこに土幣(つちべい)を円すい状に立て、しめ縄で八重に巻く。神事では池に神籬を乗せた小舟を浮かべ、神々の旅立ちを見送るという=松江市佐陀本郷の神目山

    (40)佐太神社の神在祭

    神目山から旅立つ神々 (2009/11/30) [全文]

  • 【替紋・六つ葉葵】裃(かみしも)に付されている紋。中央に花のデザインがあり花葵といわれる(島根県奥出雲町・絲原記念館蔵)

    (39)松江松平藩の紋と印

     形象異なる”ロゴ”使用 (2009/11/16) [全文]

  • 【西園寺公望が宿泊した宿札】鎮撫総督・西園寺公望が宿泊した宿札(右)。納められていた箱には随行者や警備を担当した松江藩士の名前などが残されている=出雲市大社町、藤間家

    (38)幕末史を飾った八雲丸(下)

    苦難極め宮津港で拘禁 (2009/10/19) [全文]

  • 【上野彦馬の写真館】日本の写真の開祖といわれている長崎の上野彦馬の写真館で撮影した。前列中央が岩佐徳右エ門。後列右端が藤間勇蔵。他に岩佐禄一、山本久右エ門、田口園七、速見兵助の名前が裏面にある。手にする傘は当時、文明のシンボル的存在だった。撮影時間は数分といわれ、藤間の顔がぶれているのは「武家と違い長時間の静止に慣れていなかったのだろう」(藤間亨)という(藤間家所蔵)

    (37)幕末史を飾った八雲丸(中)

    長崎を往来異文化運ぶ (2009/10/05) [全文]

  • 島根県立図書館所蔵の「第壱八雲丸」の図面の写しから、装備や性能について解説する大和ミュージアムの戸高一成館長=呉市、大和ミュージアム

    (36)幕末史を飾った八雲丸(上)

     時代先取りした新鋭艦 (2009/09/21) [全文]

  • ■相撲の起源■<野見宿祢(右)と投げ飛ばされる當麻蹴速の対戦図屏風> 幕末から明治にかけて活躍した絵師、河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)の作品といわれている(日本相撲協会相撲博物館蔵)

    (35)相撲で知る出雲の歴史

     一世を風靡した雲州力士 (2009/09/07) [全文]

  • 前方は嫁ケ島。かつて売布神社があったとされる袖師が浦沖で海の幸、山の幸をささげて宍道湖の恵みを祈願する同社の神職=観光遊覧船・白鳥号の船上で撮影

    (34)売布神社 船御幸神事

    豊漁と航行の安全祈る (2009/08/10) [全文]

  • 【出雲屋】店舗前の看板に「出雲屋鰻まむし」とともに「関西随一出雲国産」(写真右下)の文字が見える。創業当時、大阪の道頓堀付近にあった店舗で明治末期に撮影

    (33)うなぎ街道(下) 全盛時代伝える新資料

     道頓堀の「出雲屋」大繁盛 (2009/07/21) [全文]

  • 【うなぎ宿と池】中央の池と後方の家が、うなぎ街道がにぎわった明治期の面影をとどめる。周辺に池が数カ所在り、60~80のうなぎかごが一夜を過ごした。南波さんが古老から聞いた面白い昔話を教えてくれた。うなぎが「舟場の渡しを渡る」と聞けば、根雨宿中の子どもたちが手おけを持って駆けつけ、うなぎを生かすため、かごに水をかけた。手伝いの駄賃として子どもたちは、死んだうなぎがいたらもらえたという=鳥取県日野町舟場、水田侑さん方

    (32)うなぎ街道(中) 悪路の中国山地越え

     頑強な輸送隊川沿いに (2009/07/13) [全文]

  • 【うなぎ談議】松本家に残る菊の紋章と聖護院宮の文字が染め抜かれた小旗(手前右)、過去帳(手前左)、中央の掛け軸はうなぎ小屋や中海につるされたうなぎかごがある明治末の安来の港の風景を描いた。貴重な資料を前に、うなぎ談議に花を咲かせる並河健蔵さん、乾隆明さん、松本佐重さん、佐々木弘さん(右から)ら郷土史家の皆さん=写真はいずれも安来市安来町、松本佐重さん方

    (31)うなぎ街道(上) 『鰻屋』と呼ばれていた松本家

    御用商人中海産を関西に (2009/07/06) [全文]

  • 【上陸した若槻礼次郎夫妻】いすに座っている若槻礼次郎(右)と夫人(左)。中央後ろ姿は、島根県選出の衆議院議員木村小左衛門。写真左には合同汽船と思われる船と、白い鳥居がかろうじて確認できる。 松江が生んだ若槻は、島根県出身者で初の首相を務め、昭和10(1935)年4月3日、松江市の床几山に銅像が建立された。写真はこの頃に撮影されたと思われる。同年、若槻礼次郎は数本の松の木しかなかった嫁ケ島に20本の松の苗を植樹。今日の嫁ケ島の風景になったといわれている(園山書店蔵)

    (30)嫁ケ島(下)

    風光明媚 絶好の被写体 (2009/06/08) [全文]

  • 【如泥石】渦のような模様を刻んだ円柱形の来待石。消波ブロックの役割を果たす。1980年、嫁ケ島の改修時に宍道湖周辺から集めた。現在進行中の大橋川改修事業でも護岸に如泥石を使用しようという意見もある=写真はいずれも松江市浜乃木町の嫁ケ島

    (29)嫁ケ島(上)

     堀尾吉晴も景観絶賛 (2009/06/01) [全文]

  • 【陣羽織】雨森家に代々受け継がれてきた陣羽織

    (28)雨森家の寄贈品

    貴重な品々が物語る藩史 (2009/05/11) [全文]

  • 石仏・不動明王/慶応年間、章安和尚の時代に建立。あごの部分が未完成なのは幕末動乱期で資金不足になったためともいわれる=写真はいずれも松江市枕木町、華蔵寺

    (27)松江城の鬼門封じ 華蔵寺

     藩主の加護受け寺運再興 (2009/04/27) [全文]

  • 【藩主のかご】青色の着物は六尺(かごの担ぎ手)と手替(交代要員)。黒色はかご側で警備に当たる藩士。かごはこの他に山道専用の山かごも描かれている

    (26)絵巻を読む 松江藩の大名行列

     全長100メートル精巧な大作 (2009/04/07) [全文]

  • 【眠雲】大崎苑の茶室「眠雲」の席額

    (25)江戸の松江藩 其の六 江戸大崎の下屋敷

     不昧流席額独特の美意識 (2009/03/23) [全文]

  • 【穐留褝窟(あきるぜんくつ)】広徳寺総門(市指定文化財)に掲げられている不昧筆の額。色彩と書体が強烈な印象を与える=東京都あきる野市小和田

    (24)江戸の松江藩・其の五 広徳寺と杵築大社

     不昧筆の額鷹狩りが縁? (2009/03/16) [全文]

  • 【手形扇】蜀山人の賛が入っている雷電手形扇。写真は実寸大=相撲博物館蔵

    (23)江戸の松江藩・其の四 お抱え力士・雷電

    名をはせた”必殺の張り手” (2009/03/11) [全文]

  • 大正末、正室■(青にサンヅクリ)楽院(せいらくいん)と合祀(ごうし)して天徳寺から移転された不昧の墓碑。写真の人物は現松平家当主の直寿さん=写真はいずれも東京都文京区、護国寺

    (22)江戸の松江藩・其の三  護国寺

     茶道の総本山不昧の墓も (2009/03/02) [全文]

  • 【不昧像】不昧が亡くなった後、かわいがられていた狩野伊川院栄信が描いた作品。不昧像は月照寺所蔵の画がよく知られているが、これは毎年4月、護国寺で催される不昧忌で掛けられる同寺所蔵の不昧像=護国寺の不昧記念茶室・不昧軒で撮影

    (21)江戸の松江藩・其の二 不昧ゆかりの天真寺

     禅の師・大巓和尚と出会う (2009/01/12) [全文]

  • 【上屋敷跡】向かって右が衆議院議長公邸、左は参院議長公邸。敷地面積は計1万1942坪(3万9422平方メートル)。1万222坪といわれている上屋敷の敷地とほぼ一致する。写真の左端付近に国会議事堂、天気が良ければ右端に富士山が見える=千代田区平河町、都道府県会館屋上から魚眼レンズで撮影

    (20)江戸の松江藩・其の一 赤坂御門内の上屋敷

     藩主の本宅事務所機能も (2008/12/29) [全文]

  • 【城山稲荷神社本殿】城山稲荷神社本殿。軒下に9種類の動物たちが彫られている。案内をしてくれた永岡章典宮司(左)と石原幸雄さん=松江市殿町城山

    (19)松江藩の鎮守・城山稲荷神社 彫り物ウオッチング

    軒下に鎮座、お宝や小動物 (2008/12/01) [全文]

  • 【絵巻全景】 左端は船着き場。大橋川には多数の船が往来している。現在はシジミ舟の係留場所になっている。並木道の先には金剛像がある山門。絵図の中央には観音堂(左)と本堂。釈迦堂、地蔵堂、多聞堂などが描かれている。長さは約2メートル=出雲市大社町、島根県立古代出雲歴史博物館所蔵

    (18)絵図で知る松江藩 其の三 絵巻「村松山内善禅寺募縁起」

     村松家建立幻の寺伝える (2008/11/03) [全文]

  • 【雲州公行列の絵巻】島根県の実業家で美術研究家として知られる桑原羊次郎コレクションの一つ。現在は3巻に表装されているが、欠損した部分が相当あると思われる。献上品や宮中参内に必要な衣装など荷物が多く、参勤交代の行列とは比較にならない大規模な行列だった。絵巻の説明をする浅沼政誌さん(右)と岡宏三さん=出雲市大社町、島根県立古代出雲歴史博物館

    (17)絵図で知る松江藩 其の二 雲州公御上京御行列

     長さ32メートル大名行列絵巻 (2008/10/14) [全文]

  • 【長さ11・5メートルの絵巻】道程記は約11・5メートル、廊下にすべてを広げきれなかった。国境を越えて最初に出迎えるのは「郡奉行」「代官」。中海にはお出迎えと思われる5隻の舟。旗印にはいずれも葵(あおい)の紋がある。幕で覆われた屋形舟風の舟は松江藩の重臣だろうか。その下の屋敷には「御茶屋」の文字。殿様はここで最初の休憩をした=松江市東津田町、田中又六さん(右)の自宅。左は妻の喜美枝さん

    (16)絵図で知る松江藩・其の一 道程記

    藩主お国入りの道案内書 (2008/09/29) [全文]

  • 【手彫りの川床】川床の岩は勢いよく流れる意宇川に洗われ、丸みを帯びてきたといわれるが、今もなお昔の面影を残している=松江市八雲町日吉

    (15)松江藩のインフラ整備・其の三 日吉切通し

    水害の村周藤家が救う (2008/09/08) [全文]

  • 【櫛島から桂島を見る】櫛島の頂上から桂島方向を見る。堤防にはコンクリート製の歩道が敷かれ、両サイドには築堤に使った石組みが海水浴場に向けて続く=写真はいずれも松江市島根町の加賀港

    (14)松江藩のインフラ整備・其の二 加賀港築堤工事

     避難港から拠点港へ昇格 (2008/08/18) [全文]

  • 【佐陀川新景】日曜日の早朝、夜明けを待って佐陀川から日本海に出航していくプレジャーボート。近年マリンスポーツがますます盛んになる中、佐陀川を象徴する現在の顔だ=松江市鹿島町、神名火大橋から上流を望む

    (13)松江藩のインフラ整備・其の一 佐陀川開削

    水運、新田開き藩を潤す (2008/08/04) [全文]

  • 【草津宿本陣の関札】来場者がびっくりする関札群。関札から多くの大名やお供の家来が行き来した宿場町の様子が目に浮かぶ=滋賀県草津市、草津宿本陣

    (12)関札で知る松江藩 草津宿本陣(滋賀)

    参勤定宿の証し14点残る (2008/07/07) [全文]

  • 【京極忠高像(清滝寺所蔵)】忠高は1637(寛永14)年、江戸屋敷で急逝、45歳だった。1609年、父高次の死去に伴い16歳で家督を継ぐ。小浜(福井県小浜市)時代の忠高は、父が残した小浜城の築城に専念する。小浜城の完成直後の1634(寛永11)年、功労が認められ、26万4200石で松江藩主に移封される。幕府領だった石見銀山などの監督(4万石)権を与えられ、歴代京極家で最高の隆盛を見ることになる。写真は人物を中心に拡大

    (11)京極の時代・其の二 清滝寺(滋賀)

    忠高の画像伝える菩提寺 (2008/06/16) [全文]

  • 【斐伊川の若狭土手】土手に立ち、斐伊川上流を見る。遠方に見える橋は北神立橋、右は住宅地。大きくて頑丈な土手が住民の安全をしっかりと守っている様子が実感できる。土手はサイクリング道、左下は野球場やゲートボール場、多目的広場が整備された斐伊川河川敷公園で、休日には若者たちや家族連れの歓声が河川敷に響き渡る=出雲市武志町

    (10)京極氏の時代・其の一 若狭土手

    斐伊川、伯太川の治水に挑む (2008/03/31) [全文]

  • 新宮谷に残る墓跡 物差しを使い石の大きさや間隔を計る松江石造物研究会の会員ら。平たん地の広さは東西12メートル、南北13メートル。飛び石の先にある立石が墓の跡といわれている=安来市広瀬町中光寺

    (8)松江を開いた堀尾氏・其の八 忠氏の墓はいずこ?

     ピンポール(測量棒)を地面に突き刺し、地中に等間隔に埋まっている石を確認しながら「礎石くさいな」と松江石造物研究会代表の岡崎雄二郎さんがつぶやく。傍らでメンバーの西尾克己さんが「この飛び石も礎石を利 (2008/03/31) [全文]

  • 【金助と母の銅像】堀尾氏の屋敷があった場所で、堀尾跡公園に隣接する神社、八剣社の境内に建立されている母と子の銅像=愛知県大口町

    (9)松江を開いた堀尾氏・其の九 裁断橋物語

    吉晴の一面知る貴重史料 (2008/03/31) [全文]

  • 出土品 前列右から景徳鎮(中国)、伊万里焼、志野焼(2個)、■(サンズイに章)州(しょうしゅう)窯(中国)の皿や椀(わん)の破片。左端は草花が描かれた漆器のわん。2列目の大皿は伊万里。上級武士しか手に入れられなかった高価な品々が目を見張る。このほか木簡や箸(はし)、煙管(きせる)、遊玩具として使われたと思われる人形の頭も見つかった=写真はいずれも松江市殿町、家老屋敷跡の発掘調査現場

    (7)松江を開いた堀尾氏・其の七 家老屋敷跡を掘る

     松江城の築城で最大の難工事は、壕(ほり)の掘削と石垣の建設だった。壕を掘った膨大な土は、沼地や湿地帯だった城の周辺、現在の殿町や米子町、南田町などの埋め立てや造成に利用され、城下町の建設に役立てられ (2008/03/31) [全文]

  • 【中曲輪(なかくるわ)東面石垣】恩田清氏の「松江城石の刻印野帳」には城山二の丸下の段に築かれた南北約200メートルの石垣に約200個の刻印が記入されている。地上からでもたやすく確認できる=松江市殿町(同石垣の中央付近から南方向を眺望する)

    (6)松江を開いた堀尾氏・其の六 石垣の刻印

     松江城の石垣には、たくさんの刻印がある。築城に参加した家臣や戦友たちが、自分たちが運んできたという証拠に付けた目印だ。 (2008/03/10) [全文]

  •  吉晴の墓 墓の前で法要を営む堀尾史蹟顕彰会(前田道孝会長)の会員ら。昨年の堀尾祭には吉晴の生誕地、愛知県大口町から151人が訪れた=写真はいずれも安来市広瀬町、岩倉寺

    (4)松江を開いた堀尾氏・其の四 墓所・岩倉寺

    月山富田城に眠る吉晴 「墓は月山に」と言い残して亡くなったと伝えられる堀尾吉晴。墓は遺言通り、月山富田城内の岩倉寺(安来市広瀬町)に建てられた。本来、「巌(いわ)」の字があてられる岩倉寺は1187(文 (2008/02/11) [全文]

  •  本堂 本堂内陣を前に川上史朗住職から春光院の説明を聞く堀尾氏ゆかりの地巡りの参加者。入り口に法雲院殿(吉晴)と昌徳院殿(吉晴妻)と書かれた木札がある(写真右上)。内陣を仕切っているふすま絵(右後方奥)は狩野永岳の「月と雁(かり)」=写真はいずれも京都市右京区、妙心寺春光院

    (3)松江を開いた堀尾氏・其の三 もうひとつの菩提所・春光院

     堀尾家の菩提(ぼだい)所は松江市のほかにもう1カ所ある。場所は京都市右京区花園妙心寺町の妙心寺春光院。春光院は堀尾吉晴が豊臣秀吉による小田原攻めの時に亡くなった長男、金助を弔うため1590(天正18 (2008/01/14) [全文]

  • 晋山式が行われる本堂 本堂正面には吉晴(左)と忠氏の肖像が描かれた二幅の掛け軸。奥の廟(びょう)所には忠晴夫妻の木像と堀尾氏三代の位牌(いはい)が安置されている。同寺の縁起について話をしていただいた若槻大峰住職(右)と今秋17代目を継ぐ大浩さん=写真はいずれも松江市栄町、円成寺

    (2)松江を開いた堀尾氏・其の二 菩提所・円成寺

     松江を開いた堀尾氏の歴史についてもっと知りたい。しかし資料を読むのは苦手だ。そんな人たちに格好の場所が松江市栄町にある堀尾家3代の菩提(ぼだい)所、円成寺だ。   本堂に入って見上げると、梁(はり) (2008/01/07) [全文]

  • 【松江城と周辺】亀田山の山頂に築城された松江城。吉晴は亀田山の北部、現在の護国神社(天守閣の右手)あたりに仮御殿を設けて築城に携わったといわれる=2007年5月撮影

    (1)松江を開いた堀尾氏・其の一

     「松江開府400年」企画、第1章は「松江を開いた堀尾氏」。松江を開府した堀尾氏を知ってもらおうと、現在に残る堀尾氏の面影をカメラに収めた。第1回は開府の祖・堀尾吉晴と子どもたちの木像。戦国武将・堀尾 (2008/01/01) [全文]

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