春夏13度の甲子園出場を果たし、平成の島根県高校野球を引っ張った開星。甲子園でも強豪校と名勝負を繰り広げ、全国の高校野球ファンの記憶にも名を刻む。まさに「名門」と呼ぶにふさわしいが、そこに至るまでには長い苦難の道があった。「コータの野球ざんまい」第4回は、「幻」となった甲子園を糧にし、恩師と夏に挑む部長のドラマを追う。

水泡に帰した栄冠
 開星グラウンドのバックネット後方には、出場した全国大会名が記載された石碑がある。旧校名である松江第一時代に初出場した1993年夏の甲子園の石碑の隣には、「第二十九回明治神宮大会出場 平成十年十一月」と刻まれた一基。秋の中国大会を制し、中国地区代表として神宮大会に駒を進めたことを示すものだが、その横に翌年、1999年のセンバツ出場記念碑ははめ込まれていない。

「第二十九回明治神宮大会出場 平成十年十一月」と刻まれた碑文

 春のセンバツ出場校を決める際の重要な参考資料となる秋季地区大会を優勝した場合、翌年のセンバツ出場は実質上“当確”となる。それにも関わらず、開星が1999年のセンバツに選出されなかったのはなぜか。

 当時の開星には他県の高校に在籍歴があり、転入で途中入部した選手が2人いた。日本高野連が定める規定で、転入生の新しい所属先で公式戦に出場するには「転入学した日より満1ヵ年を経過」の必要があると定められている。

 ただし、特例として学校の統廃合や一家全体での転住を余儀なくされた場合の転校に関しては、この規則の対象外となり、即公式戦出場が可能となる。

 当初この選手2人は、上記の特例に当てはまると判断され、転入から1年の経過を待たずして1998年の夏から公式戦出場が可能となった。しかし、秋の公式戦終了後に改めて審査が行われると、規定を満たしていないとの判断が下された。その結果、該当の選手たちが出場していた98年夏の島根大会から同年秋の中国大会までの公式戦記録が抹消。島根県勢が当時33年ぶりに手にした秋の中国大会優勝の栄冠は、水泡に帰す格好となった。この「幻の中国大会制覇」を果たしたチームで主将を務めていたのが、現在母校の部長を務める大谷弘一郎(39)だった。大谷が当時を回想する。

開星の中国大会優勝を伝える山陰中央新報の紙面(1998年11月4日)

「今はせめて泣かせろよ!」
 「『センバツの可能性がなくなった』と伝えられたとき、最初は正直、実感が湧かなかったですね。悔しさよりも呆気にとられた感覚…...