第1部 格差の象徴 (2)絵に描いた餅

基本計画の2路線凍結/オイルショック引き金に

 「松江で2本の新幹線が交わり、拠点都市として発展するのです」。1975年に行われた島根県議選。松江選挙区でトップ当選を果たした浅野俊雄県議(87)=現在13期目=は選挙期間中、集まった聴衆に、新幹線の開通で活気づく県都・松江の将来像を声高に語った。

 2本の新幹線とは、大阪から山陰両県を経由し山口県下関市を結ぶ「山陰新幹線」と、現在の伯備線をルートとする「中国横断新幹線」(岡山-松江)。ともに全国新幹線鉄道整備法に基づき、建設を開始すべき路線として、73年に国の基本計画に盛り込まれた。

 開通すれば「松江を軸として関西や四国を結ぶ動脈が形成され、ヒト、モノ、カネが山陰両県にも流れ込む」と、地元住民の期待は一気に高まった。


 松江-広島間も

 2本の新幹線が基本計画に盛り込まれる前年、田中角栄元首相(1918~93年)は「日本列島改造論」を発表し、全国各地に新幹線網を広げる必要性を強調した。田中氏が描いていたのは、全長9千キロ以上にわたる壮大な計画。その中には、基本計画に入っていない松江-広島間のルートもあった。

 田中氏は列島改造論にこう記している。「実現すれば列島内の拠点都市が1~3時間圏内に入り一体化する。松江市内は高知や岡山などの市内と同様になり、大阪市内と同じになる」

 各地に拠点都市が形成され、物流や交流の拠点となるはずだったが、「絵に描いた餅だった」と浅野氏は嘆く。

 引き金は73年のオイルショック。日本の経済状況は急激に悪化し、大型投資事業が次々と縮小・凍結された。山陰新幹線と中国横断新幹線も次のステップの整備計画に格上げされることなく、40年以上にわたって「塩漬け」状態が続く。


 地方間でも明暗

 一方で、オイルショック前の71年に着工していた上越新幹線(東京-新潟間)、東北新幹線(東京-新青森間)は順調に建造された。田中氏は、東京と地方の格差是正を目的に新幹線網の拡大を主張したが、同じ地方の間でも格差が生まれる皮肉な構造が生まれた。

 両線の計画が先行した背景には、その後首相に就いた新潟県選出の田中氏や、岩手県選出の鈴木善幸氏(1911~2004年)ら有力国会議員の政治力が影響したとの見方も根強い。

 山陰への新幹線計画が凍結される一方、計画路線にはなかった山形新幹線(福島-新庄間)が在来線を改良する全国初の「ミニ新幹線」として1992年に開業した。それを視察した浅野氏はその足で島根県選出の竹下登元首相(1924~2000年)を訪問。「なぜ山陰には(ミニ新幹線など)高速鉄道が通らないんですか」と尋ねると、竹下氏はこう答えたという。「それは地元が求めんだったけんだわね」

 誘致に向けた地元の熱が足りなかったのか-。浅野氏は自戒しつつ、「次の整備計画に絶対入れてもらうために、今度こそ、地元で機運を盛り上げないといけない」と力を込める。

 竹下氏の答えから四半世紀たった今、山陰でも経済界を中心に新幹線待望論が広がってきた。

2018年9月3日 無断転載禁止