チベット探検の先駆者 能海 寛(浜田市生まれ)

命懸け世界平和目指した学僧

中国を探検していた能海寛の肖像

能海寛などの資料が展示されている浜田市金城歴史民俗資料館=浜田市金城町波佐

 仏(ぶっ)教(きょう)を通じた世界平和を目指し、日本で初めてチベット圏(けん)に足を踏(ふ)み入れる偉(い)業(ぎょう)を残した学(がく)僧(そう)・能海(のうみ)寛(ゆたか)(1868~没(ぼつ)年(ねん)不明)は、現(げん)在(ざい)の浜(はま)田(だ)市金(かな)城(ぎ)町長(なが)田(た)にある浄(じょう)蓮(れん)寺(じ)に生まれました。幼(おさな)い頃(ころ)に父を亡(な)くすという不幸もありましたが、向学心に燃(も)えて11歳(さい)で僧(そう)侶(りょ)になるための出家の儀(ぎ)式(しき)(得(とく)度(ど))を受けました。

 京都にある仏教系(けい)の学校で、仏教で使われる梵(ぼん)語(ご)(サンスクリット語)研究で知られる仏教学者の南(なん)條(じょう)文(ぶん)雄(ゆう)博士に出会い、教えを受けます。英語も勉強した能海は、仏教を始めた釈(しゃ)迦(か)の教えに最も近いチベット語大(だい)蔵(ぞう)経(きょう)を入手し、英語に翻(ほん)訳(やく)して全世界の仏教徒と結束を強めたいという思いを抱(いだ)くようになりました。1890年、能海は上京して慶(けい)応(おう)義(ぎ)塾(じゅく)(現(げん)慶応大)に入ります。英語に磨(みが)きをかけ、91年には哲(てつ)学(がく)館(かん)(現東洋大)に転学。学問を究(きわ)めつつ、能海は一(いっ)貫(かん)してチベット探(たん)検(けん)への夢(ゆめ)を抱き続けます。

 当時、チベットは鎖(さ)国(こく)状(じょう)態(たい)で外国人は近づけませんでしたが、能海は仏教の原典に近い教えをチベットで得ようと本(ほん)格(かく)的に探検の準(じゅん)備(び)を始めました。本(ほん)山(ざん)の東本(ほん)願(がん)寺(じ)にチベット行きを願い出て、ダライ・ラマ13世宛(あ)ての親書を預(あず)かり、98年に神(こう)戸(べ)港から上(シャン)海(ハイ)に旅立ちました。

 99年、能海は四川省成都(しせんしょうせいと)の西方にあるダルツェンドに到(とう)着(ちゃく)します。いよいよチベットに向けて探検を始めましたが、道が険(けわ)しい上に盗(とう)賊(ぞく)が現(あらわ)れ、関所で足止めされるといった困(こん)難(なん)が重なります。巴塘(パタン)というチベット圏に到(とう)達(たつ)しますが、目指す都・ラサまではるか遠く、現地(げんち)の役人に行く手を阻(はば)まれダルツェンドに引き返し、別のルートを探(さが)しました。

 1900年、能海は成都からシルクロードの近くを進むルートで2回目の探検を試みます。しかし、途(と)中(ちゅう)で旅の資(し)金(きん)や荷物が盗(ぬす)まれたことから中国南西部の重慶(じゅうけい)に移(い)動(どう)し、またもチベット入りのチャンスをうかがいました。01年2月、最初の探検より南の中国・雲(うん)南(なん)地方にルートを変(へん)更(こう)して3回目の探検を始めました。同年4月に雲南省とう川(とうせん)から妻(つま)へ送った手紙を最後に、能海の消息は途(と)絶(だ)えます。

 能海は詳(くわ)しい旅行記やスケッチ、仏典の翻訳、仏(ぶつ)像(ぞう)、旅で手に入れた草履(ぞうり)、種など探検中に入手した物をこまめに日本へ送っていました。

 古里の浜田市金城町波(は)佐(ざ)にある浜田市金城歴(れき)史(し)民(みん)俗(ぞく)資(し)料(りょう)館(かん)には、能海が送ってきた品々が展(てん)示(じ)されています。命を懸(か)けてチベットに向かい、世界平和を実現しようとした能海の功(こう)績(せき)を知ろうと、日本全国はもちろん世界からも研究者が同館を訪(おとず)れ、能海の抱いた夢に思いをはせています。

2019年8月28日 無断転載禁止

こども新聞