素質を見いだした師匠の期待を大きく越え、世界の舞台へと駆け上がった。2日の男子3000メートル障害で日本勢初の7位入賞を果たした三浦龍司(19)=順大、浜田東中ー京都・洛南高=は惜しくもメダルには届かなかったが、全てのハードルをクリアした後のラストでアフリカや欧州の選手を置き去りにし、海外の強豪がひしめく中長距離界へ爪痕を残した。飛躍の背景にあったのは、古里の浜田時代から培った自己管理と継続する力だった。 (勝部浩文)
三浦が小学1年の時、地元の浜田ジュニア陸上教室に入会した。
当初から、長距離の速さはずぬけていたが、教室で中学3年まで指導した上ケ迫定夫さん(67)=浜田市生湯町=は、能力以上に、少年の性格にずっと着目していた。素直さと、内に秘めた強いハートだ。
長距離走とは関連が薄いハードル練習で難易度が高い課題を示すと、黙々と挑戦し、打ち込んだ。
中学校の陸上部では練習環境が必ずしも十分ではなかったが、目標を定めて自主練習を継続。自ら課題を克服しようとする姿勢が快進撃につながっているとみる。
上ケ迫さんも元は陸上選手。100メートルや400メートル障害の短距離種目で、34歳まで現役を続けた。体育教員として島根県内の公立学校に勤務し、15年前に教室の運営を引き継いだ。
後進の育成に情熱を注ぐ中で三浦と出会った。自分が果たせなかった夢を重ねたい思いの一方で「まさかこれほどの選手になるとは思いもしなかった」と振り返る。しかも中学卒業で浜田を巣立ってからまだ4年余りしかたっていない。ここ2カ月で日本新記録を3度更新した姿に「龍司のおかげで涙腺が緩くなった」と照れる。
予選翌日の7月31日に届いた「(決勝は)悔いがない走りで頑張ります」との三浦からのメールに、2日後の決勝当日に返信した。
「決勝の舞台はこれまで頑張ったご褒美です。楽しんで頑張って下さい」
ただ、本人はレース後「五輪は楽しかった」と話した一方、課題にも言及した。3年後のパリ五輪に向けて早くも切り替え「納得できる走りを突き詰める」と言ってのけた。
変わらない姿に「私たちには龍司の天井は、計り知れない」とうなった。
小学校の卒業文集で将来の夢を「箱根駅伝」と記した昇り龍は、箱根どころか五輪の舞台へと上がり、さらに、上へと突き進む。