1907(明治40)年に皇太子だった大正天皇(1879~1926年)が松江城(松江市殿町)を訪れた際、島根県民と一緒に撮った集合写真が見つかったことが30日分かった。戦前に天皇や皇太子と訪問先の住民が並ぶ集合写真は異例。行啓(ぎょうけい)の記録や地元の言い伝えに言及はなく、目的や経緯は不明。当時の皇室と国民の関係を知る貴重な資料になりそうだ。 (佐貫公哉)
松江市史料調査課が今年2月、市内の旧家で古文書調査中に発見。松江城天守の窓の外観から1894年以降のものと判断し、行啓の公式記録と突き合わせ、専門家の助言を受けて分析を進めていた。容貌や袖章の階級などから大正天皇だと確認した。
モノクロのプリントで、縦15・4センチ、横19・7センチ。松江城天守の西面の前に計265人が10列程度で並ぶ。中央手前に旧海軍の通常礼服姿の大正天皇が座り、右隣は島根県知事の松永武吉。手前には海軍の軍人が並び、後列に県民が並ぶ。休憩所として飛雲閣(松江市宍道町宍道)を建てた木幡久右衛門ら地元有力者の姿もある。日付や説明書きはなかった。
大正天皇は1907年5月中旬から6月初めにかけて鳥取県から島根県入り。松江では松江城二の丸の興雲閣に泊まった。御便殿(浜田市)、仁風閣(鳥取市)といった宿泊施設が各地に建てられ、山陰両県の一大行事となった。
県民にとって一緒に写真に収まることは栄誉だったと想像されるが、行啓の公式記録や地元の言い伝えに言及はない。
日本大商学部の刑部芳則准教授(日本近代史)も大正天皇だと示す袖章や勲章を確認した。さらに、奥に並ぶ人の多くの胸元辺りに白い装飾品があることに着目し「地元の名士が式典に招待された印として着けているのではないか」とみて、式典関係者と非公式に撮られた可能性を説く。
松江市はその後の調査で、木幡家にも同じ写真があることを確認した。市内でさらに見つかる可能性があるという。史料調査課の稲田信副主任行政専門員は「天皇が神格化されてゆく時代に県民と一緒に写る状況は信じ難い。近代天皇制について新たな視野を開くかもしれない」と話す。