終戦間際の1945年7月の玉湯空襲から76年の節目の28日、松江市玉湯町湯町の報恩寺で慰霊祭があり当時、襲われた影山峰万(みねかず)さん(89)=雲南市掛合町掛合=が初めて参列した。長年、胸の内にしまっていた、つらい思い出に区切りをつけた。
松江市玉湯町では1945年7月28日、旧海軍が基地建設中だった湯町の旅館などが襲われ、25人が犠牲になった。布志名に停車中だった列車も襲われ、乗客10人以上が命を落とした。
当時13歳だった影山さんは松江市へ向かうため、姉と列車に乗っていた。列車が止まり、上空に見えた飛行機が急降下してきたかと思うと銃撃が始まった。満員の列車の中で姉と2人、必死にかがみ込んだ。外へ逃げようと立ち上がりかけた姉のすぐそばに銃弾が当たり、列車の床に穴が開いた。少しずれていたら、直撃したかもしれなかった。
「あれだけ悲惨な経験をしたのだから、と思えば、大変なことも乗り越えられた」といい、後に始めたバレーボールでは国体に出場するなど活躍した。一方、空襲の記憶は胸に残ったままで、当時を知る人も少なく、気持ちの整理がつかずにいた。昨夏、山陰中央新報の記事で慰霊祭を知り、よりどころを見いだした。
慰霊祭では参列者とともに読経や焼香をし、慰霊碑に手を合わせた。列車空襲現場にも足を運び、犠牲者を追悼した。影山さんは「今日のような暑い日は特に、あの日を思い出す。参加できて本当に良かった。これで気持ちに区切りがついた」と語った。(宍道香穂)