安江英彦さん
安江英彦さん

安江英彦さん(86)昭和10年生まれ =松江市竹矢町=

 当時は淀江国民学校の4年生でした。1945年7月28日、キキーという急ブレーキ音が自宅まで聞こえ、風邪をひいていた父の代わりに様子を見に行きました。自宅である日吉神社(米子市淀江町)の前の線路に、銃撃を受けた列車が止まっていました。客車の一両目に死体が折り重なっており、どす黒い血が、線路にぽたぽたと垂れていました。悲惨な光景を目にして立ちすくみ、戦争とはこういうものか、と実感しました。

 その列車から2人、降りた人がいました。ひとりは中年男性で、「助けてくれ、降ろしてくれ」と、降りてきました。襲撃後に意識があった人々は大山口で下車しているわけですから、列車に乗っていたのは意識がない人、もう助からないと思われる人ばかりでした。その男性はおそらく、空襲を受けた大山口から淀江まで運ばれる間で意識を取り戻したのでしょう。近くの集会所で手当を受け、連絡を受けた家族に引き取られ、帰って行きました。重傷でしたが無事に回復し、のちにお礼に来られました。

母親の心境察し涙
 もうひとりは、降りたと言うより「降ろされた」人でした。現場に駆けつけた女性が、列車から娘の死体を見つけて降ろし、その死体に取りすがって泣いていました。体調のすぐれない自分の代わりに娘が勤労動員に出かけ、その列車が空襲を受けたようです。自分の代わりに娘を死なせてしまったと、半狂乱でした。周りの者もみな、その母親の心境を察し、涙しました。

 当時、日吉神社の前には松の大木が生えており、爆撃機から身を隠すには良い場所でした。米子へ向かう途中で再び空襲警報が鳴り、爆撃機から列車が見えないようにするため、神社の前で止まっていたのだと思います。あとになって思えば、あのとき列車が飛行機に見つかっていたら、我が家も空襲の被害にあったかもしれません。

大山列車空襲時、列車が止まり、安江さんが兄を見送った線路

兄を送った線路
 自宅前の線路には、長兄の出征時に見送りをしたという思い出もあります。窓から身を乗り出すようにして手を振る兄の姿が一瞬、見えました。その後、兄は戦死したと知らせが届き、あの一瞬の姿が、私が見た兄の最後の姿となりました。優しい兄でした。年が離れていたこともあり、かわいがってもらいました。父が持って帰った遺骨箱には石ころがひとつ、入っていました。

 葬儀を終えてもなお、兄は本当に死んだのだろうか、どこかで生きているのではないかと、思っていました。改めて戦争を振り返ると、当時の日本に国際協調などを考えられる人はいなかったのか、止まることのできない何かが当時の人々を戦争へと突き動かしてしまったのかと、残念でなりません。人ひとり亡くなれば、涙を流す人が大勢います。人の生命を無理やり奪ってしまう戦争というものが、地球上から永遠になくなることを願っています。