利用者の80代女性(右)に体調を尋ねる畑岡しのぶさん=浜田市内
利用者の80代女性(右)に体調を尋ねる畑岡しのぶさん=浜田市内

 祖母、両親、4歳年上の姉、妹2人と満州で暮らした。引き揚げの記憶は、日本のどこかにたどり着き港を歩いたこと、満員列車の車内をかすかに覚えている程度だ。幼すぎて「母の顔も何も覚えとらん」

 「元気かね」「待っとった?」。介護が必要な80代の女性宅を訪れ、明るく声をかけた畑岡しのぶさん(81)=浜田市三隅町井野=は現役のホームヘルパーだ。「超老老介護」を実践している状態だが、掃除に料理に機敏に動き、利用者からは「娘にしたい」と頼られる。畑岡さんが働き続ける理由には、満州から引き揚げる途中で母と妹2人を失ったつらい戦争体験がある。 (板垣敏郎)

 

 満州や苦難の逃避行について当時小学生だった姉は覚えているはずだが、一切語りたがらない。別のところで聞いた母の様子は悲惨だった。

 乳飲み子の妹を抱え、でも飢えが厳しく乳が出なかった。「苦しい。子どもたちを連れて帰るのは無理だ。残して誰かに拾ってもらおうや」と言った母を、祖母がしかった。「ばかを言うな。家族はいつも一緒だ」。思いとどまり連れ帰ろうとしたが衰弱はひどく、母は妹たちと共に力尽きた。27歳だった。

 畑岡さんはその後、事務職として働き、27歳を超えた。さらに年を重ね、27をひっくり返した「72」が重要な意味を持つ数字となった。祖母が晩年に世話になったヘルパーの献身的な仕事ぶりに感謝し、自身も60歳でホームヘルパーの資格を取得した。亡き母とのゆかりを感じる「72歳まで続ける」が目標だった。

 自ら介護した夫が5年前に亡くなってから独居となったが、仕事は続け、浜田市長沢町のヘルパーステーションを拠点に、毎日のように利用者宅を訪問する。

 介護する相手が同年代ということも多く、共に厳しい時代を生きた同志のような気にもなる。「また元気になれるからね」「できることは少しでも自分でやってみよう」。柔らかな口調の中に励ましを込める。

 20年来続ける日本舞踊で体を鍛えているが、80代となると体力の衰えを痛感する。仕事後に家で畑仕事をする余力は今はない。でも人と会うのが楽しく、働く意欲は変わらない。

 「体が動くうちは、若くして死んだ母や妹たちの分も働きたい」。そんな思いが自らを突き動かす。