宍道湖畔の松江市役所の屋上にあり、自治体庁舎で全国唯一の天文台で4月28日、最後の天文教室があった。現庁舎が完成した1962年に誕生。ドーム型屋根の天文台と大型望遠鏡は、当時の市長の願いが反映されて設置され、市役所のシンボルとして60年以上にわたり、市民とともにあった。庁舎建て替えに伴い天文台は取り壊される。最後の教室に密着し、関係者の思いを取材した。(Sデジ編集部・鹿島波子)
28日午後7時半、辺りが薄暗くなった市役所玄関前には、子どもから年配まで多数の市民が列をなし、屋上へと向かっていた。空は晴れ、南の空には月が顔を出していた。星空観察には申し分ない天候だ。市教育委員会とともに、教室を主催する「松江星の会」の安部裕史現会長(65)は「(最後の日も)教室が開けて良かった」と安堵して、星空解説用のマイクを握った。

登った人から順次、天体観察をスタート。行列ができていたのは、天文台とともに役目を終える大型望遠鏡だった。ドーム内の踏み台に立って眺めた子どもたちは「月がよく見える」「ボコボコしてる」と少し膨らんだ半月を見ながら興奮した様子だった。
屋上の広場では、西の空に輝く金星や星座などを説明していた安部さんが、ふと上空にひときわ輝く動く物体を見つけた。「中国が独自に開発した宇宙ステーションが見えますね」。一等星よりも明るく、肉眼ではっきりと見えるほど。ピカピカと光りながら飛行機のように高速で南西から北東の方角に移動する様子に、来場者は釘付けになっていた。

天文教室が盛り上がる中、「天文宇宙検定を受けることにしました!」と声を弾ませて松江星の会メンバーに報告に来た高校生がいた。松江北高2年の石谷優衣さん(16)。宇宙の誕生など量子の世界についてテレビで見たのがきっかけで、今年3月に初めて教室に参加したばかり。星の会の会員で、同校OBでもある柳楽昌弘さん(66)は報告を受け「なかなかこんな子は珍しい。宇宙に興味を持つ子が増えるのはうれしいこと」と目を細めた。天文台の存在と教室を主宰する関係者の努力が、若い人にもしっかりと届いている。見ていてこちらも胸が熱くなった。
しかし、そもそもなぜ、市役所の庁舎に天文台ができたのか。天文教室にも参加し、市立天文台の歴史を研究した「来待ストーン」(松江市宍道町)で学芸員の古川寛子さん(46)に聞いてみた。

古川さんの調査によると、松江と星とのつながりは、天文台開設の4年前、1958年にさかのぼる。著名な天文学者で、当時京都大学で研究をしていた故上田穣博士が「松江市に天文台の設置を」と望んでいると知った2人の青年の活動がきっかけだった。上田氏が松江市を挙げた理由は、周りに高い山がなく、煙突が少ないため空気が澄んでいたからだ。その頃、ソ連が人工衛星の第1号を打ち上げ、世界中で宇宙への関心も向上していた。松江市で星空観察会を開いていた2人は、上田氏の願いを知り、天文台設置に向け、上田氏らを呼んで講演会を開いた。上田氏らの進言を聞いた故熊野英市長は天文台建設に意欲を示し、「宇宙を知ることで青少年に夢を」と現庁舎の建設に合わせて設置が実現した。

購入したのは長さ2・5㍍、レンズ6インチ(直径15㎝)の屈折赤道儀望遠鏡で、当時の価格で1台104万円。現在では1000万円以上の値だ。土星の環(わ)までよく見える大型望遠鏡で、天体望遠鏡メーカーの五藤光学研究所(東京都府中市)が製作した当時の最新型だった。古川さんは「当時の松江の人たちが興味を持って活動していたことを改めて感じましたね。街中で星が見られるところもなかなかなかったんじゃないかなと」と語る。

天文台には「冬」の時代もあったらしい。当初はアマチュア天文家や学校の先生らで、夏を中心に教室を開いていた。しかし、夜間である点や先生の転勤なども要因となり、開設して10年経った1972年以降は継続困難になり、最初のピンチを迎える。その時に立ち上がったのが、松江北高校地学部の生徒たちだった。1980年ごろからは、夏休みの小学生を対象に天文教室を実施。1984年までは生徒らがイラストを交えた手作りのテキストをつくり、工夫しながら指導したという。当時の高校生の行動力には驚きだ。その後、指導者育成を行うなど継続への取り組みはあったが、施設の老朽化や松江市周辺の光害などを理由に、天文台は閉鎖されることになってしまった。
1994年の全国紙記事では次のように書かれている。「“目玉”が倉庫代わりに」「開くの見たことない」。物置状態になっている天文台の実態を指摘していた。そこで再び光を当てたのが、その前年に初当選していた故宮岡寿雄市長だった。再整備を指示して移動式の小型望遠鏡も追加で購入。1995年、庁舎の改装工事と並行して天文台のドームも塗り替え、大型望遠鏡もおもりを動力にしていた重錘式の追尾装置からクォーツモーター式の最新鋭にするなど約140万円をかけて改修した。そして再び、市民が楽しめる天文台に生まれ変わったのだった。

以降、天文教室は1999年から、天文愛好家でつくる松江天文同好会(現「松江星の会」)の協力で四季ごとに、2011年からは月1回と定期開催が続けられた。一番の大盛況だったのは2003年秋、火星大接近の日(2003年8月27日)の約半月後に行った教室。3階建て本庁舎の屋上にある天文台から1階の市役所玄関まで長く続く大行列で、約1000人の市民が一目見ようと集まったという。

話を「最後の天文教室」に戻したい。取り壊し前のドームの壁に目をやると、メッセージやイラストがぎっしりと書かれていた。安部会長の提案で、天文教室に来た子供から大人まで思い出や感謝をつづった。「低迷期」を支えた松江北高地学部OBからも寄せられ「48年前の天文観測会やりました。とてもいい思い出です」「約半世紀ぶりに元気な姿に会えて幸せです。今日まで長らくお疲れさまでした」。ぎっしりと埋められた文字に、安部さんは「市民の愛情を感じるよね」と自身も在りし日に思いをはせたようだった。

最後の天文教室はこの日を含め3日間で約520人が来場し、28日午後9時半、盛況の内に幕を下ろした。最後の一人まで残っていたのは、天文台と“同級生”で1962年生まれの石田裕子さん(60)。大阪市在住だが、2年前からは実家のある松江に介護で帰るたびに、機会が合えば天文教室に来ていたという。天文台がある屋上からは、大橋川にかかるくにびき大橋までの4つの橋とだんだん道路の5本の橋全てが見渡せるという安部さんの話を聞き、「解説してもらえると堪能できますよね。初めて気づくことも多いし」と笑顔で応えていた。最後の記念にドームの壁を撮影しながら「人の年齢にしたらまだまだなのになあ」と名残惜しそうに天文台を後にした。
教室が終わり「きれいに閉じられたかな」。安部さんの言葉には寂しさとともに、充実感が漂っていた。天文台は取り壊されるが、天文教室は7月から、市役所別棟の第4別館の屋上に移し、2025年秋からは新庁舎で続けられる予定だ。目下は今年8月、ペルセウス座流星群をどのように市民に楽しんでもらうかが、星の会の次の目標だ。

天文台とともに活動してきた安部さんは「ジオパークであったり、野鳥の会の方がおられたり、松江にも自然を感じられるいろんな資源がある。自然科学の分野で松江の子供たちが好奇心をもってワクワクするような環境をつくるべきだなと思う」と話す。デジタル化が進む社会でこそ、豊かな環境を生かし、自然の面白さをリアルで子どもたちに伝えていくべきと考えている。「大勢の市民の方と、寝っ転がって星が見られるようなイベントをしたいな」。天文台への感謝を胸に取り組む安部さんたちの活動は、天文台の残した大きな「レガシー(遺産)」となって、これからも続いていくだろう。
