東京・東急田園都市線のホームを必死に走る。足がもつれ、息もできない。体格の良い男性が、すぐ後ろまで追ってきている。
腕をつかまれ、振りほどいた拍子にバランスを崩した。激しくコンクリートの床にたたきつけられる。
騒然とする駅構内。向けられる好奇の目が痛い。「仕事はどうなる」「俺の人生おしまいか」。取り押さえられたSさん(30歳代、男性)の目から、光がゆっくりと消えていった。2016年秋のことだ。
▽▽▽
その日は休日。ほぼ満員の電車に乗り込んでまもなく〝チャンス〟がやってきた。目の前に立つ若い男性。その鞄(かばん)の口から、財布がのぞいている。
まるで誘っているように見えた。「…取れる」。魔が差したわけじゃない。それまでもずっと、盗みの機会を探し、見計らい、考え続け、その回数分、思いとどまってきた。
だが、もはや冷静な心理状態じゃない。財布なら手っ取り早く現金が手に入る。「これがあれば今日の分は払える」。不思議と失敗する気は起きない。
盗んだ金の行く先はサラ金(消費者金融)だ。返しても返しても、催促の電話が鳴りやまない。追い込まれ、もう、限界だった。
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電車がゆっくりと速度を落とし、ホームへ入っていく。車体の揺れと男性の動きに合わせ、到着してドアが開いた瞬間、すっと財布を抜き取る。シミュレーション通りのはずだった。
違和感に気付いた男性が振り返った。「あ、、」。目が合う。男性の視線はすぐ自身の手の中にある財布へ。時間にすれば、1秒に満たない。当時、何を考えたのか覚えていない。反射的にホームへ飛び出し、全速力で走っていた。
見知らぬ駅。どこに改札があり、どう向かえばいいか分からない。「捕まれば終わり、捕まれば終わり…」。気持ちだけが前に出る。自分でもよく分かっている。運動は得意じゃない。あっけなく追いつかれた。逃げた距離は30メートルに満たない。
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その後のことは途切れ途切れしか覚えていない。駅の事務所に連れて行かれ、警察官がすぐにやってきた。財布を盗まれかけた男性の怒りは収まらず、激しくまくし立てている。
後に裁判で執行猶予付きの刑が確定することになる。ただ在宅起訴だったため、親や会社にはばれなかった。
罪は犯した。でも、休日明けには何食わぬ顔で出勤し、いつも通り仕事をした。「首の皮一枚つながった」。人の物を盗もうとした罪悪感は確かにあったはず。それ以上に、ばれなかった安堵(あんど)感が大きかった。
だがそれは、後戻りできない転落の始まりだった。
(政経部・白築昂)
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複数回の窃盗罪で服役したSさんは、6月に松江刑務所(松江市西川津町)を出所し、今は市内で働く。新聞の原則は実名報道だ。一方、匿名でなければ語れない背景や事情を持つ人が山陰にも多くいる。その声から社会の断面を見る。
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