文隆が揮毫(きごう)した「弘誓閣」の扁額=雲南市吉田町上山
文隆が揮毫(きごう)した「弘誓閣」の扁額=雲南市吉田町上山

 1945年8月9日、長崎で被爆しながら被爆者の治療に尽力し、平和を訴え続けた永井隆博士(1908年~51年)の祖父・永井文隆(ふみたか)の足跡が注目されている。文隆は、雲南市吉田町上山で医師として勤務。人の命を救う医師の志は3代にわたり受け継がれた。地元の寺院には、医の精神に通じる直筆の額が今も掲げられ、思いを伝える。
 幕末の1848年、今の島根県奥出雲町横田に生まれた文隆は、78年ごろ上山に漢方医として赴任。1908年に亡くなるまで過ごした。博士の父・寛も医師の道を目指す20歳ごろまで暮らした。
 大小の餅を片手で持ち上げる「餅さし」行事で知られる上山の善福寺の観音堂には、文隆が揮毫(きごう)した扁額(へんがく)が残されている。
 仏教用語で、菩薩(ぼさつ)が広く衆生(しゅじょう)(生命のあるものすべて)を救おうとする誓いを意味する「弘誓(ぐぜい)閣」と記されている。
 現存はしていないが、文隆の住居は、旧吉田村長を務めた堀江真さん(71)宅の敷地内にあり、近くには墓と、「永井畑」と呼ばれる畑もあった。
 永井博士と雲南市との関わりは、博士が幼少期を過ごした三刀屋町飯石地区が知られている。堀江さんは「文隆さんが上山で活躍した証拠が残っている。子どもたちが将来、永井博士に触れた際、ルーツが上山にあると知ってほしい」と話した。
(狩野樹理)