オンラインの国際シンポジウムに参加し、英語での講話を終え笑顔の築城昭平さん(右)=6月、長崎市
オンラインの国際シンポジウムに参加し、英語での講話を終え笑顔の築城昭平さん(右)=6月、長崎市

 「たどたどしくても命ある限り、世界の人に自分の言葉で体験を伝えたい」。被爆者を平和学習に派遣する公益財団法人「長崎平和推進協会」(長崎市)の中で最高齢の語り部築城昭平さん(94)=同市=は、90歳を過ぎて学び直した英語で、核兵器廃絶を訴えている。米国による原爆投下から9日で76年。二度と繰り返させないため、講話の最後に必ずこう言う。「この年寄りの願いをどうか忘れないで」

 「それは、地球最後の日のようでした」。6月中旬、オンラインの国際シンポジウムに長崎市から参加し、1945年8月9日の被爆直後の状況を英語で説明した。各国の国際機関の職員ら100人以上が視聴し「貴重な話をありがとう」と声を掛ける人や、涙ぐむ人もいた。

 築城さんは18歳だったあの日の午前11時2分、長崎師範学校の寮で仮眠中に被爆。爆心地から約1・8キロ。飛び散ったガラス片で負傷し、左腕と左足にケロイドが残った。逃げ込んだ防空壕(ごう)には、耳や鼻がもげ、全身が焼けただれた人々の姿があった。

 8月15日の終戦後しばらくしてから、爆心地付近の実相を写真で知り、衝撃を受けた。中学教員となり、広島の被爆教員らと交流。40代から修学旅行生たちへの講話を始めた。正確に説明するため、原爆の写真集や本で知識を深め、83年に推進協会に所属した。

 「核をなくすため、多くの人に知ってほしい」と考え、定年退職後は本格的に海外に足を運び、欧州やアジアなど約10カ国で体験を語った。次第に、通訳を通さずに話し、質問に答えたいと思うようになった。

 90歳を過ぎ英語を勉強し直すことを決意。協会職員らに教わり、今も週3回は英会話のテープを聴き、英語の本を読む。「爆心で声を上げられず死んでいった人々のためにも、生きながらえた自分は語り続けなければ」