昭和初期にマルクス主義へ傾倒して弾圧されながらも文学誌を刊行した大田市出身の詩人・中島資喜(しき)(1911~50年)の半生と思想が手記にまとまった。長男の鉄也さん(73)=大津市在住=が2歳の頃に他界した父の歩みを形に残そうと日記や原稿、創作ノートを読み解いた。日本が軍国主義を強めた激動の時代に、複雑に揺れる青年の心情を浮き彫りにする。
資喜は幼い頃から文学に興味を抱き、思想活動による摘発を経て旧国鉄の職場を追われた。並行して地元の文芸仲間と文芸誌「静窟」(後に「山陰詩脈」と改題)の発行にいそしんだ。
過激な左翼思想や政治活動とは距離を置きつつも、戦争について「貧乏人にとっては何一つとして理由のないことに疑ふ余地さへも見ない位ひだ」と論評。旧陸軍将校らのクーデターとされる1936年の二・二六事件には「軍部の内部的な情勢の潜行性を表面化したやうな事件であり非常に不愉快に思ふ」と厳しい。
鉄也さんには資喜の記憶はほぼない。2018年に自宅倉庫の木箱から10~20代の資喜が残した日記と作品の原稿、創作ノートが見つかり、家族の記録として残そうと整理を始めた。
手記を完成させ「子から親への感情としては奇妙かもしれないが、資喜にいとおしいという気持ちを抱いた。時代に悩み苦しみながら文学を愛好した1人の若者の姿を垣間見た」と話す。
島根県内の文学運動を長年研究する洲浜昌三さん(81)=大田市久利町=は「当時の文学や世相を考える上で、貴重な記録となる」と評価する。
手記「中島資喜の記録」はA5判、68ページ。80部を作成し、県内外の文学愛好家らに配布するという。
(錦織拓郎)