〈1962年、歌手デビュー曲「下町の太陽」が大ヒット。翌年、山田洋次監督の同名の映画で初主演した〉
私は映画のイメージが強いんですが、芸能活動の出発点は歌なんです。
戦争中、疎開していた茨城県の小学校に放送室ができた時、マイクの前で最初に歌う役に、多数決で指名されたのを覚えています。子どもの頃から声と歌はよくほめられ、賞品の缶入りドロップほしさに、のど自慢に何度も出ました。個人レッスンも受け、中学に入る前には童謡歌手として歌い始めていました。
映画の世界に入った後も、歌は手放しませんでした。「『二兎(にと)を追うものは一兎も得ず』になりませんか」と言われたこともありますが、両方続けるのを迷ったことはありません。今でも、ずっと二兎を追ってきてよかったと思っています。
「下町の太陽」で初めて出会った山田さんから、「男はつらいよ」の撮影現場で言われた言葉があります。「歌は語るように、せりふは歌うように」。歌う時も、演じる時も、いつもそう心がけてきました。最近は、歌と演技の両方が、自分の中で合体しているように感じることもあります。
〈高倉健さんとの共演なども心に残るが、やはり極め付きは「男はつらいよ」シリーズの寅さんの妹、さくらだ〉
歌手活動の中心は、長年続けてきたコンサートです。山田さんに短い寸劇を書いていただき、お兄ちゃん(渥美清さん)にゲストで出てもらったこともあるんですよ。
私がコンサートの稽古をしていると、お兄ちゃんが来て「俺にも歌わせろ」と、民謡の「刈干切唄」を歌う。ちゃんと音合わせもしたのに、渥美ちゃんは本番ですごく低いキーから歌い始めちゃって…。でも、苦労して最後まで歌ってくれたのを思い出します。
歌が面白いのは、同じ曲でも、年齢によって歌い方が変わってくることですね。「さよならはダンスの後に」を初めて歌った時は、出だしの「なにも言わないでちょうだい」の「ちょうだい」をうまく歌えず、「あめをちょうだいじゃないんだ。色気がない」とプロデューサーに〓(口ヘンに七)られました。主人公が置かれた状況を理解し、背景にある時代や社会を知ることで、歌い方が変わるんです。
〈夫の作曲家、小六禮次郎のピアノ演奏で60周年記念コンサートを開催。80歳の今も、伸びやかで澄んだ歌声は健在だ〉
お風呂の中で発声練習をしています。毎日やるのは「パタカ」。パパパパパ、タタタタタ、カカカカカ、と一つずつ息が続く限り言って、最後にまとめて「パタカ、パタカ」と言うんです。滑舌もよくなるし、健康のためにもいいと思います。
コンサートは、童謡、叙情歌、大人の歌という順番で、私の人生をたどるようなプログラムにしています。全て大切な歌ですし、反戦の思いを込めた「死んだ男の残したものは」(谷川俊太郎作詞、武満徹作曲)みたいに、一生歌い続けなければと思う曲もあります。大上段に何かを言うのは苦手なので、歌が唯一のそうした表現なんです。
あちこちパーツは傷んできましたが、今も歌え、演じることができる自分は幸せだな、と思います。元々両親からもらった声ですが、もう歌えませんというところまで歌い続けたいですね。自分の力を全部使い切って死にたい。それが生きることだと思うんです。(聞き手は共同通信編集委員・立花珠樹、写真 小島健一郎)
=随時掲載=
ばいしょう・ちえこ 1941年、東京都生まれ。60年、松竹歌劇団(SKD)に入団。61年、松竹から映画デビュー。「男はつらいよ」シリーズのさくら役や「幸福の黄色いハンカチ」など山田洋次監督作品の重要な俳優として活躍。ほかに「駅 STATION」、「ハウルの動く城」(声の出演)など。