1984年10月、日本一となり胴上げされる広島の古葉竹識監督=広島球場
1984年10月、日本一となり胴上げされる広島の古葉竹識監督=広島球場

 12日に亡くなった古葉竹識さんの最大の実績は、1975年に広島を球団初のセ・リーグ優勝に導いたことである。開幕して間もなくルーツ監督が辞任。指揮者にとって中途の後継監督ほど難しい役目はない。 

 そんな状況で優勝した理由に当時の主力選手は「先発投手の登板間隔を守ったローテーションの確立」を挙げた。それまでの広島はゴールデンウイークの後、決まって下降線をたどった。「コイの季節の終わり」と言われた。ローテーションの崩れが原因だった。

 それを修正した。安定した投手力で勝つという原点を重視。万年Bクラスの負け癖をも拭い去ることになった。初の日本一にも押し上げ、常勝チームに育てた。

 無名の古葉さんを一流の野球人にしたのは「野球が命」「負けん気」「貧しさ」だった。小柄な体を支えた〝肥後もっこす〟の典型とされた強気の性格。少年野球に夢中となりプロ選手の夢を描いたが、家業が倒産。それまでの富裕から「貧しさに耐えろ、空腹に耐えろ」の生活になった。

 先輩の誘いと特待生の条件で専修大に進んだ。1年生の時、日鉄二瀬の濃人渉監督(のちに中日などで監督)から「プロに行かせてやる。それに給料が出る」。中退し、社会人となって実家へ仕送りができたという。広島入団も監督のおかげで、同僚の江藤慎一を見に来たスカウトに「無名だが、将来性はある」と売り込んでくれた。

 猛練習で正遊撃手の座を奪った。長嶋茂雄と首位打者を争った63年は死球であごを骨折、離脱して2位。毅から竹識への改名を経て新たな戦いに臨み、盗塁王を2度取った。はしゃぐことはなく黙って好結果を出した。

 一回り大きくしたのは野村克也率いる南海への移籍だ。ここで「考える野球」と出合う。技術に座学が加わり「一球を大事にしろ」が古葉野球の柱となる。初の日本一になった79年の近鉄との日本シリーズ第7戦。4―3で迎えた九回裏、抑えの江夏豊が無死満塁のピンチに遭った。古葉監督は主力投手に救援の準備をさせた。いわゆる「江夏の21球」で抑える場面だが、勝負に隙を見せないすごみがうかがえた。

 絶対に諦めない生きざまは故郷の先輩で、子ども時代から赤貧にあえいだ巨人V9監督の川上哲治と重なる。大学の監督時代、部員の就職に尽力したのは人の温かさを知っていたからである。〝静かなしたたかな男〟は波乱の昭和特有の野球人だった。(元共同通信編集委員 菅谷斉)