飛び地付近にある「雲南市」の標識前に立つ大石亘太さん=島根県奥出雲町佐白から撮影
飛び地付近にある「雲南市」の標識前に立つ大石亘太さん=島根県奥出雲町佐白から撮影

 島根県奥出雲町に雲南市の飛び地がある。昔、領主同士の縁組で結納の品として土地を贈る際に飛び地にして分かりやすくしたのが始まりとされ、たたら製鉄が絡むとの説もある。明治以降、幾度かの市町村合併でも飛び地と周りを囲む地区が異なる自治体に属し続け、1996~98年に尾原ダム建設に伴う立ち退きで住民不在となった。雲南市と奥出雲町の合併でもない限り、今後も島根県唯一の飛び地として残りそうだ。
(清山遼太)


 雲南市木次町北原の「尾白」と呼ばれる地で、奥出雲町佐白に囲まれる。雲南市側から300メートルほど離れ、東西600メートルほど、南北800メートルほどのエリアで原野や放牧場が広がり、住居はない。雲南市側から通り抜けると「奥出雲町」の標識を見て間もなく「雲南市」の標識が現れ、再び「奥出雲町」の標識に出合う。

 乳牛40頭を飼育する「ダムの見える牧場」は佐白と尾白にまたがり、敷地の半分近くが尾白にある。牧場主の大石亘太さん(37)は「今後、牧場を訪れた人に飛び地の歴史を解説するのも面白いかもしれない」と話題づくりを描く。

 ▽領主の結納か
 なぜ飛び地ができたか、地元には定説がある。「奥出雲町の神話と口碑伝承」(奥出雲町地域活性化実行委員会発行)によると、奥出雲町側の領主が雲南市側の領主の娘と結婚することになり、結納の品として土地を贈った。その際、結納の証として分かりやすいよう、飛び地にしたという。

 「木次町尾原北原民俗誌『悠久のふる里 尾原北原の年輪』」(内田稔編著)は戦国時代、奥出雲町三沢地区の要害山に城を構えた三沢為虎が他家に嫁ぐ娘にこの地を持参させたとする。

 要害山三沢城跡保存会前会長の田部英年さん(80)=奥出雲町三沢=は三沢氏の一族の為成が尾白を治めたことが始まりと推測する。当時の尾白は良質な砂鉄が採れ、斐伊川から谷風が強く吹き付ける地で、野だたら製鉄で使う炉の温度を上げるのに適し、為成が着目したという。

 明治から平成までの市町村合併で北原地区に当たる旧北原村は旧温泉村、旧木次町を経て雲南市に、佐白地区に当たる旧佐白村は旧布勢村、旧仁多町を経て奥出雲町になり、両地区は異なる自治体に属し続けた。

 特に仁多郡に属していた旧温泉村が戦後の1955年の合併で旧木次町になり大原郡に移ったことが大きな分かれ目。田部さんは「木次側に帰属意識を持つ住民の意志が影響した可能性がある」とみる。

  ▽今後も残る?
 飛び地が残り続けたのはなぜなのか。合併の経緯に加え、考えられるのは、誰も住んでいないことだ。

 仮に飛び地に住んでいたとすると、通学先は東に約2キロと近い布勢小学校(奥出雲町八代)ではなく、北西に10キロ以上離れた木次小学校(雲南市木次町木次)となる。ごみ収集は雲南市側が担うことになる。

 現在、飛び地に住民が暮らしておらず、行政運営上の支障はない。雲南市総務課の鐘撞征司課長は「今のところ困ったことがあるとは聞いていない」と説く。

 立ち退くまで住んでいた人も、不都合は感じなかったと振り返る。10キロ以上離れた雲南市木次町里方に引っ越した宇田川恵智郎さん(86)は子どもの頃、佐白地区から奥出雲町側に通学する子どもとすれ違う風景が印象に残る。それでも「暮らしの上で不自由さはなかった」と話す。

 飛び地に山林を所有し、今も手入れに出掛けることがある。「仮に飛び地が奥出雲町になるとしても反対はしない。ただ今更、奥出雲町に移すメリットも思いつかない」といい、飛び地は今後も残るとの見方だ。