風化した五輪塔(手前右)に替えて建てた尼子地蔵に手を合わせる若松隆さん(左)と池田哲真住職=松江市鹿島町手結
風化した五輪塔(手前右)に替えて建てた尼子地蔵に手を合わせる若松隆さん(左)と池田哲真住職=松江市鹿島町手結

 戦国時代から伝わる地域のいわれを後世につなごうと、松江市鹿島町手結(たゆ)の若松隆さん(71)が、手結を治めた戦国大名・尼子氏を弔う「尼子地蔵」を建てた。古くに港が開かれた手結で、現在の山口県を拠点にした大内氏に攻められ、480年前に散ったとされる尼子氏の軍勢に思いをはせ、地域の歴史の一端を継ぐ石碑として港のほとりに安置した。 (勝部浩文)

 手結を含む当時の出雲国周辺は、勢力を競った尼子晴久と大内義隆が各地で衝突。手結では「敗れた尼子の武将を供養するために建てられた」と口伝えされてきた五輪塔があるが、自然石に近い形状で風化が激しく、家族形態の変容で子や孫に伝承されないことも増え、一部住民だけが知る存在になっていた。

 五輪塔があるのは港周辺の民家のそば。近くで育った若松さんも子どもの頃に祖父母からいわれを聞いており、「先人の供養と地域の歴史を残したい」と一念発起。塔を地蔵に改めようと、知り合いの石材店や左官の協力を得て設置にこぎ着けた。

 聞き伝えを裏付ける史料調査も実施。郷土史に詳しい知人に頼み、山口県内に残る大内氏関連の古文書に1542年に大内氏の武将・冷泉隆豊が鯛浦(手結)で尼子軍と戦ったとの記録を確認した。

 地蔵が設置された4月中旬、開眼供養をした近くの禅慶院の池田哲真住職(58)は、自身が尼子氏の居城・月山富田城があった安来市広瀬町在住で「縁を感じる」とかみしめた。若松さんは「地域の歴史を後世につなげたい」と気持ちを新たにした。