大山を背に船を漕いで岸に向かう氏子たち=松江市美保関町美保関、美保関港
大山を背に船を漕いで岸に向かう氏子たち=松江市美保関町美保関、美保関港
勢いよく水を掛け合う氏子たち。大きなしぶきが勇壮な雰囲気を高めた=松江市美保関町美保関、美保関港
勢いよく水を掛け合う氏子たち。大きなしぶきが勇壮な雰囲気を高めた=松江市美保関町美保関、美保関港
大山を背に船を漕いで岸に向かう氏子たち=松江市美保関町美保関、美保関港
勢いよく水を掛け合う氏子たち。大きなしぶきが勇壮な雰囲気を高めた=松江市美保関町美保関、美保関港

 冬の曇り空の下、2艘(そう)の船に乗り込んだ男たちが豪快に海水を掛け合い、激しくしぶきが散る。松江市美保関町美保関の美保神社と近くの美保関漁港で3日、国譲り神話にちなんだ諸手船(もろたぶね)神事があった。地域の人たちによって脈々と受け継がれる伝統の神事。港に集まった多くの人が熱い視線を送った。

 

 神事は、国譲りを迫られた大国(おおくに)主命(ぬしのみこと)が美保関で釣りをしていた息子の事代主命(ことしろぬしのみこと)に意向を確認するため、船で使者を送ったという神話にちなむ。大漁祈願や五穀豊穣(ほうじょう)の願いが込められており、港町・美保関ならではの神事だ。

 「雨が降ろうが、雪が降ろうが絶対にやるもの」と話すのは、漕(こ)ぎ手として船に乗った氏子の大鼓裕次さん(48)。毎年4月7日に催される青柴垣(あおふしがき)神事も国譲り神話にちなみ、諸手船神事のストーリーからつながっている。それぞれの神事が関わり合い、地元の強い思いで継承されている。

 諸手船神事は、11月28日に美保神社の末社で行う地主社祭(じぬししゃさい)が起点となり、数日を経て船に乗り込み、クライマックスを迎える。

 3日は、美保神社でくじによって漕ぎ手などの役割が決められた後、烏帽子(えぼし)に白い衣といった古式の衣装に着替えた一行が厳かに境内を進み、港へ向かった。

 モミの大木をくりぬいた2艘の船に氏子が9人ずつ乗り込み、港の東側にあり大国主命を祭る客人社(まろうどしゃ)の方向に漕ぎ出した。社を望んで拝礼すると、向きを変えて「ヤー、ヤー」と声を上げながら競って岸に戻る。着岸するや、水の掛け合いが始まった。櫂(かい)で海水をすくい、相手の船の漕ぎ手に向けて勢いよく。大きく上がるしぶきが勇壮な雰囲気を高めた。

 事代主命役の宮司と船上にいる使者役の氏子が向かい合って祝言を述べた後、再び船を漕いで水を掛け合い、氏子らは神社へと戻った。

 神事を終え、大鼓さんは「とにかく無事に終わって良かった」と安堵(あんど)の表情を浮かべた。少子高齢化に伴い、神事の担い手となる氏子も減りつつあり、継承には地域のまとまりが大きな力になる。美保神社権禰宜(ごんねぎ)の横山直正さん(41)は「可能な限り存続していくと、神職、氏子ともに考えている」と今後を見据える。

 (文と写真・報道部 佐貫公哉、写真・境港支局 松本稔史)

 

<メモ>

 諸手船神事は、遅くとも江戸時代初期から400年以上続くとされる。同様に長い歴史がある青柴垣神事とは結び付きが強い。二つの神事で重要な役割を担う当屋(とうや)は、青柴垣神事の際に決まる。当屋になった氏子は約1年間、毎日早朝や夜の人目につかない時間帯にお参りし、鶏肉を食べないようにするといった生活を送る。

 

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