「あなたのオリジナル曲を毎週紹介…V-airあまばん!こんばんは、いなたしげるです―」。島根、鳥取両県に住む人なら、ドライブ中に一度はこの声を聴いたことがあるのでは?FMラジオ局のエフエム山陰(松江市学園南1丁目)で長年アナウンサーを務めてきた稲田茂さん(55)=米子市在住=が3月、同社を退職した。ラジオ一筋33年、在任中は地方ラジオ局ならではの困難や使命と向き合いながら、試行錯誤の中で声を届け続けた。今や全国を席巻するあの有名アーティストとの出会いもあった。稲田さんを訪ね、ラジオ人生を振り返ってもらった。(Sデジ編集部・鹿島波子)
▼エッジの効いた「スポンサー読み」の原点
稲田さんがエフエム山陰に入社したのは、開局4年目の1990年2月。高校時代にパーソナリティーの声マネするほど毎日聞いていたラジオに関わる仕事がしたいと採用試験を受けた。面接時に初めて「アナウンサー」の採用試験と知る想定外もあったが見事合格。最初に任されたのは、パーソナリティーや楽曲の音量などを調整する「ミキサー」の仕事だった。
曲を選び、音響調整して番組を作ったり、20秒や60秒のCM制作をしたりするのが主な業務。「アナ採用なのに、ミキサーかよ」と最初は不満だったが、ここでの5年間が稲田さんの土台を作った。
当時、朝夕のローカル帯番組「ビートオンSTANCE」や「グッドモーニングLISA&MAI」などを担当し、開局初期をパーソナリティーとして支えた「DJミッキー」さんと一緒になることが多かった。ミキシング中も「BGMちっちゃいよ」と細かく指導してもらい、腕を磨いた。そのミッキーさんが、本番やCM収録でスポンサー名を目の前で読み上げる声がやけに格好良く聞こえ「スポンサー名を一番かっこよく、他と違って特別に聞こえる人になろう」と心に決めた。エッジが効き、聞き終わった後にも余韻が残る、稲田さん独特の「スポンサー読み」の原点はここだった。

▼隠岐の島を50往復した3年間
稲田さんにとって、1996年から98年の3年間は忘れられない。今はなくなったが、隠岐の島町に隠岐発の中継局「隠岐FMパオパオ」があり、収録のために船で隠岐に通った。高速船「レインボー」就航に合わせて1993年に開局し、島内や一部本土向けに観光シーズンの5~10月の午後8時から10時まで夜の2時間、自主制作番組「PAOPAO倶楽部」を放送していた。当時の7町村でつくる協議会がスポンサーで、島民参加型の番組のため毎回多くの島民との交流があった。
「牛突き」の牛を育てる隠岐の島町都万地区の民家では、ある時は牛を溺愛し、またある時には山肌に突っ込ませて鍛え上げ、本番で血だらけになるまで闘わせる飼い主と話した。そのギャップと、賞金もなく「名誉」だけを求めて育て上げる姿に「理解できなくても、その地区の人にしか分からない思いを聞きに行っていた」と逆に楽しんでいた。

3週に1度、2泊3日で隠岐に通った結果、3年間で50往復に及んだ。気づけば、金曜昼前に着くと「おかえりなさい」、日曜午後に松江に帰るときは「行ってらっしゃい」と島民が接してくれた。松江からマイク1本、レコーダー1本を持ち、一度の来島で12~13本のコーナーを収録した日々は驚きの連続で「『なんじゃこりゃ』っていう宝物に触れた時間だった」と振り返った。
▼叶えた夢と、あの有名アーティストとの思い出
ラジオの世界は、一度は諦めていた夢を叶えた場所でもあった。就職活動時代、ラジオ局の他、レコード会社のソニーやビクターを受けるほどの音楽好きで「(ミュージシャンの)新人発掘の仕事に憧れがあった」が、ラジオ局入社と同時に諦めていた。そんな中で...