見つかった「境港商報」(左)と「隠岐公論」を手にする舩杉力修准教授=境港市上道町、市役所
見つかった「境港商報」(左)と「隠岐公論」を手にする舩杉力修准教授=境港市上道町、市役所

 明治後期-昭和初期の境港市と、昭和初期の島根県・隠岐諸島の様子を記した新聞が見つかった。境港や隠岐の戦前の新聞がまとまって見つかるのは初めて。商港として発展した港町の歴史、隠岐と境港の結び付きがうかがえる貴重な資料で、領土問題を調査研究する日本国際問題研究所(東京都)がデータ化する。

 新聞は、1906(明治39)年創刊で月1~3回発行された「境港(さかいこう)商報」と、37(昭和12)年創刊で月1回発行の「隠岐公論」。境港商報の創業者・故里見周三氏の孫・泰男氏(東京都在住)が2019年に境港市へ寄贈した市内の蔵から見つかり、同研究所から依頼を受けた島根大法文学部の舩杉力修准教授(歴史地理学)が調査した。

 境港商報は1906年9月の9号~41年11月の979号のうち、約250号分が見つかった。境港への移入品や市況情報が記され、境港の「経済新聞」と位置付けられる。昭和初期に当時「竹島」と呼ばれた現在の韓国・鬱陵島(ウルルンド)周辺のスルメや海苔(のり)が、隠岐周辺の漁獲物と同等の値で、境港で取引されていることなどが書かれている。

 隠岐諸島の政治や経済を網羅した隠岐公論は37年の1~7号が見つかった。39年に創建された隠岐神社の造営着工を報じる記事のほか、境港の商工業者の広告もあり、当時から隠岐と境港の結び付きが強かったことが確認できる。

 29日、境港市内で会見した舩杉准教授は、昭和初期に境港では複数の新聞が発行された一方、45年の旧日本軍徴用船「玉栄丸(たまえまる)」の境港岸壁での爆発事故で大半が焼失したと説明。「境港や隠岐の戦前の新聞がこれだけまとまって見つかったのは初めて。境港と隠岐との関係性、島根県東部と鳥取県西部を含めた流通や経済を知る上で貴重な資料だ」と述べた。 (園慎太郎)