太平洋戦争末期、戦況が厳しくなる中で日本軍の特攻は、若者の命を賭した「必死」の作戦だった。軍部は本土決戦への時間稼ぎと最後の戦果を上げる「捨て石」として沖縄を重視し、九州や台湾から次々と出撃させた。約6千人の命が失われた。
福岡県内の飛行学校に通った2人の操縦士は、次々に飛び立っていく仲間を見送り終戦を迎えた。あれから80年。「人間として認められない『鉄砲玉』として、無駄死にさせられた」「仲間の死は決して無駄ではなかった」―。特攻へは異なる感情を抱く一方、「過去を知って判断してほしい」と不戦の思いを胸に体験を語り続ける。(共同通信=西野開、神谷龍)
▽「おまえたちは消耗品」
1943年4月、鳥谷邦武さん(98)=佐賀市=は福岡県の大刀洗陸軍飛行学校に入った。どうせ男は兵隊に行かなければならない。だったら早く入隊して階級を上げた方がいいと思った。専攻は1番人気の操縦士...