勝部本右衛門栄忠=松江市史料調査課提供
勝部本右衛門栄忠=松江市史料調査課提供
高城権八や勝部本右衛門栄忠らの尽力によって解体を免れた松江城天守。140年後に、国宝指定答申を万歳して喜ぶ関係者=2015年5月15日撮影
高城権八や勝部本右衛門栄忠らの尽力によって解体を免れた松江城天守。140年後に、国宝指定答申を万歳して喜ぶ関係者=2015年5月15日撮影
高城権八=松江市史料調査課提供
高城権八=松江市史料調査課提供
勝部本右衛門栄忠=松江市史料調査課提供 高城権八や勝部本右衛門栄忠らの尽力によって解体を免れた松江城天守。140年後に、国宝指定答申を万歳して喜ぶ関係者=2015年5月15日撮影 高城権八=松江市史料調査課提供

 旧藩士らの熱意、国を動かす

 松江城(まつえじょう)天守(てんしゅ)は、全国で五つしかない国宝(こくほう)の天守です。その大切な城も、明治時代の初めに解(かい)体(たい)される寸前(すんぜん)でした。保(ほ)存(ぞん)の必(ひつ)要(よう)性(せい)を強く訴(うった)えて松江城の危(き)機(き)を救(すく)ったのが、旧(きゅう)松江藩(はん)士(し)の高(たか)城(ぎ)権(ごん)八(ぱち)(1832~98年)と、勝(かつ)部(べ)本(もと)右衛(え)門(もん)栄(しげ)忠(ただ)(1796~1886年)、景浜(かげはま)(1823~81年)親子でした。

 明治時代になって政(せい)府(ふ)は全国各地の城を無用の長(ちょう)物(ぶつ)として「廃(はい)城(じょう)令(れい)」を出しました。その結果、多くの城が取り壊(こわ)され、土地は自治体や学校の建物用などに売(ばい)却(きゃく)されました。

 1875(明治8)年、地方を守るために駐在(ちゅうざい)し、松江城を管理していた陸軍省広島鎮台(ちんだい)は、お城の中心建物である5層(そう)の天守と、偵察(ていさつ)や矢、鉄砲(てっぽう)などを発射(はっしゃ)するため九つあった櫓(やぐら)などを不用として入(にゅう)札(さつ)にかけます。

 その結果、天守が180円(米の価(か)格(かく)を基(き)準(じゅん)に計算すると、現在(げんざい)の120万円くらい)、その他の櫓などのものは合わせて4~5円の安(やす)値(ね)で落札(らくさつ)されました。

 松江市雑(さい)賀(か)町に住んでいた権八は「城が解体されれば、旧松江藩士たちの心のよりどころがなくなってしまう」と悲しみました。そして、広島鎮台の関係者に「落札金(きん)額(がく)と同額を用意するので、天守だけでも残してほしい」とお願いします。

 栄忠は出(いず)雲(も)市斐(ひ)川(かわ)町に生まれました。勝部家は、松江藩から銅山(どうざん)の経営(けいえい)を任(まか)された大きな農家。代々、本右衛門を名乗り、第7代の栄忠は和(わ)歌(か)や茶(ちゃ)道(どう)、書(しょ)画(が)をたしなむ文化人、8代の景浜は開発事業家、社会文化事業家でした。

 銅山方役人の権八は、仕事を通して知り合いだった栄忠らに呼(よ)び掛(か)け、落札金額と同額を納(おさ)めたといいます。その成果もあり、松江城天守は廃城を免(まぬが)れます。しかし、櫓などは解体されてしまいました。

 明治時代の中ごろ、旧松江藩主だった松(まつ)平(だいら)家(け)の子(し)孫(そん)が、政府から4500円で松江城一帯の払(はら)い下げを受け、昭和に入って松江市に寄(き)付(ふ)。

 松江城は国宝に指定されますが、1950(昭和25)年に施行(しこう)された文化財(ぶんかざい)保護(ほご)法によって、国宝は一律(いちりつ)に重要文化財に指定されました。その後、幾(いく)たびも松江城を国宝にしてほしいと陳情(ちんじょう)がなされましたが、実を結びませんでした。

高城権八や勝部本右衛門栄忠らの尽力によって解体を免れた松江城天守。140年後に、国宝指定答申を万歳して喜ぶ関係者=2015年5月15日撮影

 しかし、詳(くわ)しい歴史(れきし)調(ちょう)査(さ)によって築城(ちくじょう)した年が江戸時代の1611(慶長(けいちょう)16)年と確定(かくてい)でき、さらに通し柱を用いたことなど、天守の構(こう)造的(ぞうてき)な特徴(とくちょう)が明らかになりました。

 これらの点が「お城造(づく)りの最盛期(さいせいき)を代表する遺構(いこう)として極(きわ)めて高い価値(かち)がある」と評(ひょう)価(か)され、国宝化を願う市民運動の後(あと)押(お)しもあって2015(平成27)年、国宝に指定されました。