1945年7月28日、宍道湖岸の海軍航空隊基地建設地を標的にした空襲で、兵士25人が犠牲になった。松江市玉湯町湯町の伊藤節雄さん(83)は国民学校1年生で味わった恐ろしい実体験を、5年前から地元の小学生たちに語っている。「戦争はいけない」という、胸の奥底から湧き上がる思いと願いを伝えるために。
(片山皓平)
空襲で犠牲になったのは湯町の旅館「八勝園」を宿舎としていた兵士たちだった。布志名に停車中だった列車も襲われ、一般人の死傷者も多数あった。
ごまをフライパンで炒めた時のような、パチパチという機関銃掃射の音が今も耳に残る。基地建設地から500メートルほど離れた自宅の窓が、爆風で割れた。「音がとにかくすごかった。生き残ろうと、家の押し入れの中に逃げた」
このほか、戦時中のことでよく覚えているのも、学校で習った「空襲からどうやって身を守るか」だった。空襲の警戒警報を意味する青と白の旗が公民館に揚がると、すぐに下校。飛行音が聞こえると草陰に隠れ、親指で耳をふさぎ、4本指で目を抑え、ランドセルで頭を守った。実際に空襲警報が鳴り、学校の裏山に避難したこともあった。
出征先のフィリピンで父親が犠牲になったこともあり、戦争は5年前まで、思い出したくない記憶だった。空襲の体験者の高齢化が進む中、玉湯小学校(現玉湯学園)の依頼をきっかけに「伝えないといけない」と考えるようになり、毎年9~10月、同校児童を前に体験を語る。
「資料が少なく、戦争の痕も残っていない玉湯でも被害があったことを伝えないといけない」。ロシアのウクライナ侵攻などが平和を脅かす今、あらためてその思いを強くしている。














