影山峰万さん 1931年生まれ(89歳)=雲南市掛合町=
当時13歳、松江の工業学校の2年生でした。空襲があった7月28日、自宅のある掛谷町(雲南市)から松江市内の親戚の家へ向かうため、姉と汽車に乗りました。木次駅で乗車し、宍道駅で乗り換え、松江へ向かっていました。
途中、湯町駅(現在の玉造温泉駅)付近で列車が止まり、飛行機が近づいてくるのが見えました。まさか列車が撃たれるとは思っていませんから、みんな外に出て、上空の飛行機を眺めていました。するとそれらが引き返して来て、そのうち1機が急降下してきたのです。「撃ってくるぞ!」と騒ぐ声が聞こえたかと思うと、バリバリバリ!と。機銃掃射が始まりました。間隔をあけて4回ほど、繰り返されました。全員しゃがみこんだり列車の下に隠れたりして、じっとしていました。座席のシートを外し頭に乗せて身を守っている人たちもいましたが、私たちがいたのは車両の連結部分だったので頭に乗せるものもなく、ただただ必死でしゃがみこんでいました。
骨がむき出しの人も
途中、外へ逃げようと立ち上がりかけた姉のすぐ真横に弾丸が落ち、車両の床に穴が開きました。あと少しずれていたら、身体を貫通していたかもしれません。銃撃が止み、それはもう必死で、姉と近くの山へ逃げ込みました。そこには同じように列車から逃げてきた人たちがおり、ひざを負傷して骨がむき出しになった人もいました。手当をしていた人に頼まれ、その人の止血を手伝いました。
姉と相談し、掛谷の自宅へ戻ることにしました。列車は止まっていましたから、玉湯から歩いて宍道駅まで戻りました。履物もどこかで脱げてしまって、裸足で歩きました。真夏ですからとにかく暑かった。宍道駅に着いて、動き始めた汽車に乗り、自宅へ帰りました。母親は列車銃撃を知り、子供たちは死んでしまったとばかり思っていたようです。帰宅した私たちを見て、とても安心した様子でした。

襲撃時のことは、断片的にしか覚えていません。とにかく恐ろしくて、必死でしたから。周りの状況も見る余裕はありませんでした。衝撃的な出来事でしたから、その後の人生でも事あるごとに思い出しました。ただ、自分はあれだけ悲惨なことを経験したのだからと思えば、大変なことも乗り越えられました。
(玉湯空襲の)慰霊祭が毎年行われていることを知り、今年(7月28日)は参加しようと考えています。ここでひとつ、区切りをつけたいと思っております。
<後日談>
その後、影山さんは7月28日、松江市玉湯町であった慰霊祭に初めて参加した。慰霊祭を終え、影山さんは「今回、参加できて本当に良かった。これで気持ちに区切りがついた」と話した。
慰霊祭の記事(山陰中央新報7月29日付)