日本最古の闘牛とされる隠岐の牛突き。島根県隠岐の島町池田の隠岐モーモードームでは15日午後、盆の帰省客や地元の闘牛ファンで満員になり緊張感に包まれていた。夏場所結びの一番、唯一の「勝負」に皆の目はくぎ付けになった。
東方から入場したのは鷹山(ようざん)1号。知夫村で生まれ、体格の良さを見いだした隠岐の島町原田の角崎将仁さん(35)が西郷に運び、手塩にかけて育てた。読み通り、体重は980キロまで増え、番付会議で座元の誇る横綱として推された。
西方は同町五箇で生まれ、5カ月から都万地区共同牛舎で育った龍神。体重は930キロ。飼い主の都万牛突き保存会、半田耕一さん(53)が日々の運動や突きの練習をして勝負の日を迎えた。半田さんは「けんかしてくれるかな」と、期待と不安をにじませる。
隠岐の牛突きは800年の歴史があるという。1221年、配流された後鳥羽上皇は中ノ島(海士町)に着くやいなや、牛が戯れに角を突き合う姿を見て興味を持った。心を癒やしてもらおうと、天覧の牛突きが始まったという伝説がある。
年3回の本場所は2019年10月に五箇で開かれた一夜嶽(いちやがだけ)牛突き大会を最後にコロナ禍で中止が続いた。観光牛突きなどはあったが、夏場所は4年ぶりだ。
黒光りする両雄とも真剣勝負は初めて。半田さんは「負けると牛も飼い主も気持ちが下がってしまう」と言う。賢い牛に「負け」や「逃げ」を覚えさせないため、大勝負を初陣にする場合が多い。必ず引き分けにする前頭までの五番とは違い、横綱の真剣勝負は角を鋭く削っての戦いとなる。
ゆっくりと頭を合わせ取組が始まった。「エイッ、ヤー」「ハイ、サイサイッ」。綱取りもする2人が大声で気合を入れ、牛も呼応し全力で押し合う。カチカチと角をたがえる音が響く。開始11分、龍神が一気に押し込み会場を沸かせた。鷹山は踏ん張り、互角の突き合いが続く。角は血で赤く染まり、必死の形相と荒い息が間近に迫る。23分を過ぎて鷹山が押し込んだが、龍神が一気に巻き返して、「勝負あり」のアナウンスが流れた。
以前と比べて牛の数や飼い主は減った。角崎さんは「文化を引き継ぐというか、自分は牛突きが好きだ。好きで楽しいことをなくしたくない」と声を強める。半田さんは「久々の大会でたくさん人が来てよかった。帰っておいしい餌をやりますよ」と額の汗を拭った。
(文と写真、動画・隠岐支局 鎌田剛) =随時掲載=
メモ 牛突き、闘牛の風習は隠岐の島町のほか、愛媛県宇和島市周辺や鹿児島県徳之島などに残る。隠岐の牛が各地に譲られることもある。隠岐諸島では海士町が盛んだったが、明治以降は牧畑で使う牛の需要が減り、繁殖用の雌牛が増えたことから廃れて隠岐の島町のみに残る。町観光協会によると、牛突き用の牛は約50頭いる。個人所有がほとんどで西郷、都万、五箇の各地区に共同牛舎がある。本場所は夏場所のほか、今年は9月4日の八朔牛突き大会(佐山牛突き場)、10月9日の一夜嶽牛突き大会(一夜嶽牛突き場)が予定されている。