青木幹雄氏の地元・出雲市で長年にわたり付き合いがあった関係者は生前の思い出を振り返り、別れを惜しんだ。
「お帰りなさい」と書いた横断幕を掲げ、出雲大社の境内は地元民千人の熱気に包まれた。1999年10月、内閣官房長官として初入閣を果たし初めて帰郷した日のことを、幼なじみの祝部幸吉さん(85)=出雲市大社町杵築北=はきのうのことのように覚えている。警備の警察官やマスコミにも囲まれ、「すごい人になった」と実感した。
小学校時代、地域の子どもたち約20人を引き連れ、近くの海で泳ぎ、家の納屋で遊んだ。「あの頃から面倒見が良かった。それが政治の世界でも生きていたのでは」。運転免許を持たなかった青木氏から、成人してからも「幸ちゃん、頼むわ」と頼られ、車に乗せたことは誇らしい思い出だ。
自民党大社支部事務局長を務めた水師幸夫さん(75)=同=は「気配りの人だった」とし、感謝する。「ごくろうさん」と声を掛けられたことを思い出すのは3度目の選挙だった1998年参院選。「表に出ないスタッフにも心配りがあった」。ニュースで訃報を知り、まぶたに柔和な笑顔が浮かんだ。
同市の飯塚俊之市長が思い浮かべるのも「柔らかく温かみのある、気さくな人柄」。島根県議会議長を務めた父普彬(ひろよし)さん(故人)が高校、大学の後輩に当たる縁から、自らも学生時代から会話を交わし「古里を思う気持ちはひしひしと感じていた」。政治家となった自身の指標でもある。
漁師の江角卓一郎さん(75)=同=は、大社町漁協(当時)の組合長も務めた青木氏から、会えばいつも「何が捕れるかね」と問われ、話に花が咲いた。サバの子が好物と知り、大社ではなかなか水揚げされないが、いつかは贈りたいと思っていた。
大社湾漁業振興基金で青木氏が代表理事、自身は理事を務め、年1回は顔を合わせていた。新型コロナウイルス禍を経て今月末に4年ぶりに開く理事会を前に接した訃報。「久々に会えるのが楽しみだったが、残念だ」と声を絞り出した。