戦況が悪化し、悲壮感が一層濃くなった1940年代前半。「面倒なことを考えず、当然のように少年飛行兵になってしまった」と振り返る細田暢三(まさみ)さん(94)=安来市広瀬町布部=は14歳だった。
農家の長男だった。小学2年生の時に日中戦争が始まり、毎日のように出征兵士を見送った。同級生の父もいた。国家総動員法に基づき軍事教育に拍車がかかった。天皇の写真と教育勅語を納めた宝蔵庫にわけも分からず頭を下げた。心身鍛錬と銘打ち、冬に近くの山を裸足で登らされた。
校内に少年兵募集のポスターが貼られるようになった。ある日、低空飛行する軽飛行機から操縦士が身を乗り出し、自分たちに手を振った。派手な空中戦や戦車の行進を描く映画も校内で上映された。「乗ってみたいなあ」。兵士への憧れを抱かせる宣伝だった。
高等小学校卒業間際に「進路指導」を受けた。担任の先生から「志願しろ」と少年兵になるよう強く説得された。若い時に入隊すれば特典があるとも言われた。役場の兵事係も家に来て勧めた。国の求める少年兵の配置目標を達成しようと大人たちは必死だった。
試験を受けた。身体検査や思想調査を経て合格。千人中、20人しか通らないような狭き門で町の誇りと称(たた)えられた。壮行式に続く出発の日は町中から数百人が集まり盛大に見送られた。
少年飛行兵に特別な感情は抱いていなかった。「健康ならどうせ徴兵される。早く出ただけのこと」。地元の工場からもらった就職の内定は辞退した。進路を自分で決められない時代だった。
大津陸軍少年飛行兵学校(大津市)に入校。14歳だった。全国各地の14~16歳が集まった。「軍人として望ましい人格を形成する」と校長が訓示し、軍人勅諭をたたき込まれた。銃に菊花紋章が付き「天皇から借りた銃」として大切に取り扱うよう指導された。
グライダー演習など1年の基礎訓練を終え埼玉県所沢市の上級学校に進んだ。1945年のことで、5月ごろから空襲が激しく訓練どころではなくなった。突然紙と封筒を渡され遺書を書かされたこともあった。1年先に入校した先輩は特攻隊員になっていた。
「B29が房総半島を北上中」。昼夜関係なく空襲警報が鳴った。焼夷(しょうい)弾を落とされ炎上する東京の街を遠くに何度も見た。学校も狙われた。米機が高度5~10メートルに急降下し機関砲を浴びせた。塹壕(ざんごう)に駆け込んだ。
7月に盛岡に派遣され8月15日に班長から終戦を伝えられた。翌日、兵舎近くに掘った大穴に軍関係の書類などを入れ、全て燃やした。「命が助かったとか、思わんかった。何も思わんかったね」。戦死は名誉と教え込まれてきた。いったい命とは何なのか。
今は緑豊かな穏やかな地にいる。あの戦火の数々の上に今の平和がある。「みんなで知恵を出し合い守ってほしい」。心から叫ぶ。
(小引久実)