A級戦犯の遺骨処理を巡る経過
A級戦犯の遺骨処理を巡る経過
東条英機
東条英機
A級戦犯の遺骨処理を巡る経過
東条英機

 第2次大戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けた東条英機元首相らA級戦犯7人の遺骨について、米軍将校が「太平洋の上空から私がまいた」と記した公文書が、6日までに見つかった。米軍による具体的なA級戦犯の遺骨処理の方法が公文書で判明するのは初。遺骨は遺族に返還されず、太平洋や東京湾にまかれたとの臆測はあったが、行方は昭和史の謎とされていた。

 文書は、占領期に横浜市に司令部を置いた米第8軍が作成。日本大生産工学部の高澤弘明専任講師(法学)が米国立公文書館で入手した。遺骨処理の詳細が記載されていたのは、7人が処刑された1948年12月23日付と、49年1月4日付の2種類の極秘文書(機密解除済み)。現場責任者のルーサー・フライアーソン少佐が「戦争犯罪人の処刑と遺体の最終処分に関する詳細報告」として、経緯を記していた。

 文書によると、少佐は48年12月23日午前0時すぎ、巣鴨プリズン(東京)で7人の死刑執行に立ち会った。遺体を乗せたトラックは午前2時10分、巣鴨プリズンを出発し、1時間半後に横浜市内の米軍第108墓地登録小隊(現・横浜緑ケ丘高)に到着。午前7時25分に小隊を出て、30分後に同市の火葬場(現・久保山斎場)に到着した。遺体は午前8時5分までにトラックから直接、炉に入れられた。

 火葬後、別々の骨つぼに納められた7人の遺骨は、第8軍の滑走路に運ばれ、「横浜の東の太平洋上空を約30マイル(48キロ)地点まで連絡機で進み、私が遺骨を広範囲にまいた」と記している。

 横浜市によると、滑走路があったのは、火葬場から約2キロの同市中区若葉町。文書から散骨は処刑当日に行われたことが読み取れるが、「約30マイル地点」が太平洋のどこを指すかや、時間の記載はなかった。

 東条元首相のひ孫東條英利さん(48)は取材に「どこかに廃棄されるより、自然に返されたのはましだ」と冷静に語った。

 処刑に立ち会った連合国軍総司令部(GHQ)のシーボルト外交局長は著書で「指導者たちの墓が将来、神聖視されることのないように、遺灰はまき散らすことになっていた」と記述。遺骨は太平洋や東京湾にまかれたとの伝聞や臆測はあったが、裏付ける公文書は見つかっていなかった。