2010年9月、長野県松本市で開かれた演奏会で指揮する小澤征爾さん
2010年9月、長野県松本市で開かれた演奏会で指揮する小澤征爾さん

 世界で活躍した指揮者の小澤征爾さんが88歳で亡くなった。名前を聞くだけで、情熱を込めて指揮をする姿、気さくな笑顔を思い浮かべる人は多いだろう。クラシック音楽の枠を超えて親しまれる存在だった。その生涯には社会の次代を描くヒントが幾つもある。

 旧満州(現中国東北部)生まれ。少年時代に東京の桐朋学園で斎藤秀雄に指揮を学ぶ。1959年には単身でフランスに渡って音楽修行を始め、指揮者コンクールで優勝。海外に出て、人の輪に飛びこんでチャンスをつかむ。その積み重ねがカラヤン、バーンスタインという巨匠の指導を受けることにもつながった。

 70年代から29年にわたり、米国のボストン交響楽団の音楽監督を務めたのをはじめ、2002年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤーコンサートを日本人として初めて指揮。数々の名演で高い評価を受けた。西洋の音楽にアジア人が地歩を築く先駆けとなり、晩年まで実績を残したのは、個人的な資質だけでなく、音楽家としての研さんがあったからに違いない。

 音楽には言語も文化も異なる人々をつなぐ力がある。平和への願いも共有できる。小澤さんはその力を信じていた。1978年、文化大革命後初の外国人指揮者として北京で中国中央楽団を指揮した。95年の戦後50年には、被爆地長崎の浦上天主堂でマーラーの交響曲第2番「復活」の公演に臨み、オーケストラと合唱の荘厳な響きに鐘を重ね、平和を求める強いメッセージを送っている。これらの活動でも存在感を発揮した。

 優れた指導者に恵まれた小澤さんは、後進の育成に情熱を注いだ。「サイトウ・キネン・オーケストラ」を創設して毎年夏に長野県松本市で音楽祭を開催、若い世代の音楽教育プログラムを実施した。他にも室内楽アカデミーを開き、海外の一線に立つ演奏家を招いて指導に当たっている。

 長い音楽人生には思わぬこともある。60年代に指揮者を務めたNHK交響楽団と険悪になり、協力を拒否されたことなどを後年の自著で明かしている。「全然経験が足りなかった」と悔いを隠さないのも小澤さんらしい。

 2010年には食道がんの摘出手術を受け、晩年は降板と復帰を繰り返したが、諦めは感じさせなかった。死去による欠落感は当分、クラシック音楽界を覆うかもしれない。

 一方、88年の生涯に改めて目を凝らせば、音楽にとどまらない意味が浮かび上がる。生前の小澤さんは故人をしのぶ公演にバッハの「G線上のアリア」をよく選んだ。静かに染みいるこの曲に、人間への愛惜と信頼を込めているかのようだ。この信念を糧に、これからの社会を描くことはできないか。

 若い日の小澤さんのように自らの殻を打ち破る勇気、臆せず挑戦する伸びやかさは、あらゆる立場の人に共有されていい。つかんだチャンスを生かすためには努力が欠かせないのは当然だが、周囲の支えも必要だ。

 多様な価値観の連帯、平和への願いを発し続ける大切さも小澤さんは残していった。世界が混迷する今、ひときわ重要な考え方と言える。これら次代に向けたヒントを積極的に生かすべきで、誰もが成長できる仕組み、寛容さを保てる環境を社会全体でつくりたい。