神英雄さんの著書「堀田仁助 蝦夷地を測った津和野藩士」
神英雄さんの著書「堀田仁助 蝦夷地を測った津和野藩士」

 江戸後期の1799年に方位や距離、緯度を測って精度の高い地図を作り、江戸と蝦夷(えぞ)地(北海道)を結ぶ安全な海路を開拓した津和野藩士・堀田仁助(ほったにすけ)(1745~1829年)に光を当てる書籍が発刊された。島根地理学会会長で前加納美術館館長の神英雄さん(68)=安来市荒島町=が新聞紙上で連載した記事を加筆、修正。伊能忠敬に先駆けた郷土の偉人の功績をたたえる。

 仁助は幕府の天文方(天文や暦の研究機関)に起用され、海路開拓を命じられた。天体観測で緯度を割り出しながら江戸から蝦夷地東南部の厚岸へ船で行き、さらに西南端の松前まで海岸部を測量しながら歩き海路図「従(えど)江都(こうと)至(より)東海(とうかいを)蝦夷地(えぞち)針路之図(にいたるしんろのず)」を作った。

 書籍「堀田仁助 蝦夷地を測った津和野藩士」(山陰中央新報社刊)は、幕府が海路開拓を迫られた背景からひもとき、ロシア、英国など諸外国の船が相次いで蝦夷地に来航し国防上の危機感を抱いたと説明。本州から松前や函館に渡り、沿岸を東進するといった既存ルートには襟裳岬沖など難所があり、有事の際に迅速に兵を送れる安全な海路開拓を迫られたとした。

 対抗心を抱いたとみられる忠敬が「仁助の地図は不備がある」と幕府に申し出て地図を作った逸話も紹介。仁助より緯度は正確だったが、未測量区間が多く地形がずれていたという。

 明治期に教科書に載り広く知られた忠敬と比べ、仁助は埋もれかけていた。神さんは2013年、仁助の子孫と出会ったのを機に研究を始めた。成果は山陰中央新報で21年4月から22年5月まで61回掲載された。

 研究が呼び水になり島根県津和野町、北海道厚岸町などゆかりの地で顕彰の機運が高まり、米国の海防史研究者からも問い合わせが来たという。神さんは「いろんな方が興味を持ってくださった。仁助を後世に伝えてほしい」と願う。

 書籍は四六判カラー、212ページ。2200円。

  (桝井映志)