被爆体験を語り「戦争は絶対にやってはいけない」と力を込める角エミコさん=松江市雑賀町
被爆体験を語り「戦争は絶対にやってはいけない」と力を込める角エミコさん=松江市雑賀町

 78年前の8月6日、広島市に住んでいた角エミコさん(90)=松江市雑賀町=は原爆が発する光を目にし爆風を受けた。焼け野原になった市中心部を思い出すたびに心の中で叫ぶ。「戦争は絶対にやってはいけない」と。

 爆心地から約3キロ離れた所にある己斐国民学校(現己斐小学校)の6年生だった。朝8時15分、校舎2階で友達とお手玉をしている時だった。窓側の壁を背に座っていた角さんの目の前を青白い光が覆った瞬間、窓ガラスが吹き飛んだ。何が起こったのか分からぬまま急いで裏山に逃げた。

 「爆弾が落ちたのだろう」。誰かが言った直後、東の方にはキノコ雲が立ち上り、真っ赤になっていた。一緒に遊んでいた友達はガラスの破片でけがをしたり、やけどを負ったりした。

 家に帰り、一緒に住んでいた叔母と共に爆心地に向かった。近くで叔父が働いていたからだ。進むにつれて、やけどを負った人たちの姿が増えていく。焼けただれた赤ちゃんを背負い、前かがみに倒れ込む女性を見た。

 「目を持ちたくない」と思った。叔母が角さんの頭に手拭いをかけた。「見るんじゃない」。必死に目を閉じたが、漂う臭いが鼻をついた。こっそりと開けた目に映ったのは生き地獄だった。結局、叔父の行方は分からなかった。

 角さんは生みの親を早くに亡くし、育ての親、さらにその親戚の下で暮らしていた。その年のうちに、着の身着のまま、1人で大阪に向かった。梅田駅では戦争孤児とみられる子どもたちがたくさんいた。生きるために、すりに手を染める子どもも見た。

 自身は靴磨きをしてお金を稼ぎ、闇たばこを仕入れて販売し、食いつないだ。その後は警察に紹介してもらった天王寺の孤児収容施設で孤児たちの世話係として働いた。

 戦中、戦後と苦しい生活を送り、戦争がもたらす不幸を身をもって知った。世界で戦争が起こり、核の恐怖が国際社会への揺さぶりの材料とされる今だからこそ、被爆者の1人として「戦争は絶対にやってはいけない」と強く言いたい。 (古瀬弘治)