大竹海兵団で撮影した記念写真
大竹海兵団で撮影した記念写真
戦争の記憶を語る小村四郎さん=松江市玉湯町玉造
戦争の記憶を語る小村四郎さん=松江市玉湯町玉造
大竹海兵団で撮影した記念写真
戦争の記憶を語る小村四郎さん=松江市玉湯町玉造

 松江市玉湯町玉造の小村四郎さん(98)は海軍の一員として太平洋戦争で南方へ赴いた。裏方の人事係だった。ある時乗っていた駆潜艇が敵機に攻撃され沈没。大海原で漂流した。あの日の記憶をたどると涙が浮かぶ。

 

 1945年春ごろに台湾へ向かう途中、昼前だったのか、日がまだ高かった。操舵(そうだ)室にいた時に駆潜艇が襲われた。

 遠くに見えた敵機9機が1機ずつみるみる近づいてきて、「ダダダダ」と機銃を撃った。身を伏せて、なんとか逃れようとしたが、右足が撃ち抜かれた。それでも「逃げなければ」と、なんとか足を動かし、外に出た。そんな時、仲間のか細い声がした。

 お母さーん。お母さーん-。何度も何度も。

 同い年の砲術長だった。銃弾に腹がえぐられ、瀕死(ひんし)の状態だった。何もできなかった。「頑張れ」。それしか言えなかった。

 けがをした右足の応急処置が終わるころ、砲術長は息を引き取っていた。右手の指だったか。遺体を一部でもいいから持って帰ろうと切り離し、そっと布でくるんだ。

 船が傾き、沈みそうだ。「退避ー!」。上官だったか、声が響いた。戦闘中に3機を撃墜したが、空にはまだ、敵機が6機いた。かまわずに海へ飛び込んだ。そばにいれば沈む船に巻き込まれるので、足の痛みも忘れて懸命に離れた。

 それから、半日近く海に浮かんだ。幸い敵機は遠く消え去り、近くにいた船が救助で駆け付けてくれた。助かった。

 けがのため休養中に8月15日の終戦を迎えた。マレー半島で連隊長から「残念ながら負けた」と聞いた。これからどう生き延びるのかを考えた。投降して現地で捕虜となった。戦死が名誉とされるのとは反対に捕虜になるのは恥とされた。

 生き延びてしまった。日本には帰りたくなかった。もし帰るなら途中で列車に飛び込みたいとも思った。しかし、終戦から1年ほどが過ぎて松江の実家に帰ると、生きていたことにまず驚かれ、そして喜ばれた。

 時をさらにさかのぼると18歳まで国鉄に勤めた。戦況が悪化し軍に入るよう求められたという。ならばと海軍へ志願し、広島の「大竹海兵団」に入団した。1年ほどで卒業し、兵士の訓練状況などを記録する人事係となって九州や北海道に送られた。44年秋ごろ、下関からシンガポールへ渡った。移動は多かったが、裏方だったため危険は少なかった方だ。

 記憶は薄れてきたが、恐怖はくっきりと刻まれている。それでも自分が経験したのは本当の戦争ではないという。悲惨さ、凄惨(せいさん)さなら、ほかにもっともっとあったという。亡くなった全ての人をしのぶ。          (古瀬弘治)