松江市学園南1丁目の旧島根県立プール跡地で開催中のポップサーカス(山陰中央新報社、TSKさんいん中央テレビ主催)のフィナーレに、壇上でウクライナ国旗を振る男性がいる。空中ブランコを担当するチャトさん(49)だ。ロシアの侵攻を受けた同国は妻の故郷で、昨年3月に家族とともに命がけで脱出。平和への強い思いを胸に宙を舞う。 (林李奈)
侵攻が始まった昨年2月、南米チリ出身のチャトさんは、新型コロナウイルス禍でサーカス公演が中止になる中、妻のイリナさん(40)の両親が暮らすウクライナに身を寄せていた。自宅は、ロシア国境に近いハリコフ近郊で、地響きと爆発音で目が覚めたことを覚えている。
街の中を戦車が通り「一瞬で世界が変わった」と驚くとともに危険を感じ、妻と長男のケイランちゃん(4)と地下室に身を隠した。「ドーン」。巨大な爆音は地下室にも響き、長男には「花火の音」と言い聞かせたが、長男は体をこわばらせた。生活は一気に「地獄」と化し、ロシア軍の攻撃が続く中で死と隣り合わせの日々が続いた。
「息子を守らなければ」チャトさんは3月、決死の覚悟で出国を試みた。妻と長男と3人で、人波をかきわけて列車に乗り、何度も乗り継ぎ、やっとのことで隣国のスロバキアにたどり着いた。その後、ポップサーカス関係者の協力を得て12月に日本へ。「壮絶な1年だった」と振り返る。
松江公演では、空中ブランコのリーダー役で、空中に飛び出したパフォーマーをキャッチする重要な役回りを演じる。「目の前のことに集中し、観客のために全力でパフォーマンスをする」と演技中は悲しい記憶を抑え、演技にすべてを集中させる。観客には長男と同じ年頃の子どもたちも多く、喜ぶ姿に「この平和と自由が大切」と感じる。
パフォーマーが集合し、世界各国の国旗を振るフィナーレでは迷わず、母国ではなくウクライナ国旗を選んだ。「戦争のことを忘れないでほしいから」。いまだに戦争は終わらず、妻は「いつ母国に帰れるのか」と残した両親の身を案じ、涙する。「平和が脅かされてはいけない」と遠く離れた松江で必死に旗を振り、平和の訪れを願う。
「家族が一緒にいることが一番大切。私が家族を守る」チャトさんの揺るがぬ決意だ。今月6日、松江水郷祭の花火を家族で一緒に見た。今でも大きな音を怖がる長男を心配したが、笑顔で見入っていた。「ゆっくりとした時間を過ごし幸せを感じた」と言う。
公演中は、自身も美しい演技で、観客席に笑顔の「花」を咲かせる。ウクライナに爆音ではなく「平和な花火」がとどろく日が来ることを信じて。
公演は9月18日まで(毎週木曜と8月30日、9月6日が休演)。