千年前、浜田に和泉式部が訪れた? 平安時代中期の貴族社会を描いた大河ドラマ「光る君へ」に登場し、紫式部との関わりが注目される和泉式部は、生涯2度結婚し、冷泉天皇の皇子兄弟と身分違いの関係を持った「恋多き女性」で知られる。子を産み、子を捨てたと伝わる場所が浜田市内の各所にある。生没年不明、愛した男性の数も不明な人生。都から遠く離れた浜田での足跡をたどった。
浜田市誌などによると、和泉式部は父がいる大宰府(福岡県)に下る際の1005年ごろ、浜田に立ち寄り、産気づいたという。浜田で出産し、三隅町まで歩き、子を捨てたとされる。
有名な伝承地は、産前に立ち寄った下府町の中村家に伝わる「腰掛け岩」だ。横幅2メートル近くある巨岩で、近くにほこらが建てられている。腰掛け岩を出発した式部は直後に出産。生湯町に産湯に使ったとされる井戸があり、地名の由来になった。
江戸時代後期の地誌には式部が生湯で詠んだ歌が掲載されている。
『うき時は 思ひそ出る 石見潟 袂(たもと)の里の 人のつれなさ』(訳:つらい時には思い出さないでほしい 石見潟に住む人は冷淡だから)
「袂の里」は井戸周辺を指す。産後間もない式部は着物の袂に子を包み、歩いていたが、気にかける人がおらず、つらい思いをしたようだ。
近くには休憩で腰掛けた岩が名字の由来となった石ケ休(いしがやすみ)家もある。30キロほど離れた浜田市三隅町三隅の子落(こおとし)地区は式部が子を捨てた場所とされ、2008年に石碑が建てられた。いずれも住民によって今も語り継がれている。
鳥取には出生地
和泉式部研究の大家、故吉田幸一東洋大名誉教授によると、このほかにも山陰両県には和泉式部伝説が残る場所が多くある。
鳥取市湖山町には出生地が、同市鹿野町には浜田と同じく産湯に使ったとされる井戸がある。島根県奥出雲町亀嵩には終焉(しゅうえん)の地と伝わる石塔、同県津和野町高峯の白糸の滝も産湯と伝わり、旧畑迫村(現津和野町)には式部の屋敷があったとの言い伝えがある。
島根県立大人間文化学部の山村桃子准教授(日本上代文学)は、各地に伝承地がある理由について「恋多き女性で物語の主人公にしやすい人物だったのではないか」とみる。
平安時代後期の勅撰(ちょくせん)和歌集「後拾遺集」には、和泉式部の歌が最多の67首収録されている。鎌倉時代にかけては御伽草子などの説話も作られた。少なくとも4人の男性と恋をし、娘の小式部内侍を早く亡くした式部の物語は時に面白おかしく、時に悲哀を持って語られ民間に広まったという。
仏門に晩年入る
和泉式部は中宮彰子に出仕し、武勇に秀でて「道長四天王」として名を挙げた中級貴族の藤原保昌(やすまさ)と2度目の結婚をする。その後は不明だが、晩年は仏門に入ったとの話が多い。民俗学者の柳田国男によると、中世は熊野信仰の女性宗教家により「恋多き式部は信仰で救われた」との物語が全国で広まっており、浜田も同様とみられる。
「○○の腰掛け岩」や産湯の井戸などは全国にある。浜田の伝承の地は、信仰心を高める式部の説話が、どこかのタイミングで、地域の神事に使っていた岩や井戸などと結びついたようだ。
浜田では大河ドラマにあやかり「和泉式部ロード」を整備しようとする動きがある。有志の会代表の斎藤晴子さん(77)は「千年も前の人物の伝承がここまで残っている地域は少ない」と話す。和泉式部の物語が今なお魅力的に語られ住民の心をつかんでいる。(報道部・森みずき)
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和泉式部
越前守・大江雅致(まさむね)の娘。平安時代中期の歌人で百人一首の歌人、中古三十六歌仙の一人。夫橘道貞が長保元(999)年に和泉守に任じられ、和泉式部と呼ばれたとされる。夫と別居後、冷泉天皇の為尊(ためたか)親王、次いで同母弟の敦道(あつみち)親王と恋愛した。藤原道長の娘彰子の女房として出仕し、藤原保昌と再婚。敦道親王との恋愛を主題にした「和泉式部日記」がある。










