若槻真治さん
若槻真治さん

戦後史会議・松江世話人代表の若槻真治さん=松江市古曽志町=

 旧海軍大社基地跡(出雲市斐川町出西)の主滑走路やその周辺の遺跡は、戦時の基地の姿が比較的よく残された、全国でも珍しい遺跡群です。実戦で使用されたコンクリート舗装の滑走路が、当時のままの状態で約600メートルにわたって残されている飛行場は全国でもほとんどありません。米軍の空襲で九州の基地が破壊され、訓練も困難になり、新たな基地の建設地として選ばれたのが山陰でした。かつて新川と呼ばれる人工の放水路だった、真っ直ぐで平らな土地は滑走路を造るのに適しており、舞鶴から派遣された設営隊の主導の下、毎日約6千人が建設作業をしました。

 

 

 米子美保基地の予科練生4千人に加え、地元住民もこの突貫工事に動員されました。子どもも動員されていました。川だった土地は草が伸び放題だったと思いますので、その草の根を抜く仕事などは子どもたちがさせられたようです。

 山陰地方は大きな空襲もなく、広島や長崎のように原爆を落とされたわけでもありませんから、「戦争とは遠い地域」と思われがちですが、それは違います。「国民総動員」「総力戦」の時代に、戦争と遠く離れていることは許されることではありませんでした。また、山陰地方は日本海に面しており、大陸側との窓口にあたりますから、米軍側には、日本海を制圧して、朝鮮半島と日本をつなぐ航路を断ちたいという思惑がありました。物資の供給を絶やすことで日本を飢餓状態に陥らせ、追い詰めようという作戦です。

住宅地に機雷が投下
 1945年の7月24日ごろから、北浦、惣津、七類など、日本海沿岸の漁港や基地が連続して空襲を受けました。海だけでなく、住宅地にも機雷が投下されました。7月28日には、松江、出雲の広い範囲で空襲があり、50人近くの方がなくなりました。そしてそれに対して、日本軍も、大社基地もその一つですが、本土決戦に向けた基地や陣地を山陰に造り、そこにもまた住民が動員されました。当時は、どんな地域も、どんな田舎でも、何らかの形で戦争に関わっていたのです。

 家族が戦死したり、作った食料を供出したり、勤労動員されたり。出西の農村だった場所に突然、飛行場が作られたことからも、戦争が身近なものだったことがうかがえます。戦争が長引けば、本格的な無差別爆撃も受けたかもしれません。どの町も、防空体制としては極めて無防備だったので、一旦本格的な空襲を受けたらひとたまりもなく焼け野原になったでしょう。

大社基地の主滑走路跡‖出雲市斐川町出西

 大社基地遺跡群は、日本史全体から見ても、郷土史的な意味でも、戦争学習をする上でも、注目されるべき遺跡だと思います。平和学習についていえば、実際に自身の足で現場に立つことで感じるものがあり、考えることも深まります。多くの人に関心を持ってもらい、戦争や国際関係、社会のありかたについて考えをめぐらせてもらいたい。

加害の歴史見つめられず
 戦時下と現代とでは、暮らしぶりこそ大きく変わりましたが、人間の根本的な部分は変わっていないのではないかとも思えます。失敗の原因を考え、正面から向き合うことから逃げていては、また同じことを繰り返してしまうのではないか。日本では戦争について、被害の歴史は語られても、加害の歴史はあまり見つめられませんが、戦争をするということは、被害者にも加害者にもなるということです。それを理解していないと、うわべの外交が行われ、国際関係も浅いものになってしまうのではと思います。うわべのつながりでは、本物の外交はできないし、友人になることもできない。戦争について客観的に考えることで、相互理解も深まるのだと思います。