当時、55歳。浜田庄司や柳宗悦らと「民藝運動」に深く関わり、陶芸家としての地位を固めていた河井寛次郎の手は、太平洋戦争に止められた。
京都・五条通から一本筋を入った自宅で続けていたつましい暮らし。戦況が厳しくなると、裏手にある登り窯は使えなくなった。一度火をおこせば、数日間続けなければならない。光が漏れ、米軍機から丸見えになる。やむを得なかった。

ぽっかりと空いてしまった時間。訪ねてくる友人や知人に会いつつ、本を読みふけり、京都の町を歩き回った。表現は作陶から「書くこと」へと移った。さながら哲学者のように自らの内へ内へと潜り、精神世界を深めた。日記もその一つで、半紙...